桐野河内(中世)

南北朝期~戦国期に見える地名丹波国船井郡のうち桐野牧河内村ともいう延文元年6月2日の後醍醐天皇綸旨に「丹波国桐野河内郷」とあり,御祈祷料所として神護寺に寄進されている(神護寺文書/大日料6-3)これは,後醍醐天皇が湊川の戦いでの敗戦によって比叡山に潜幸したとき,戦勝を祈って寄進したもので,以降神護寺領としての所見はない下って,永享4年の桐野河内年貢目録によると,この年に90貫文の年貢が納められており,当地は幕府御料所であるが,そのほかにも北野社領などが含まれていることがわかる(蜷川家文書12)また康正2年の造内裏段銭并国役引付には「三貫文 五月卅日〈送状アリ,請取出〉伊勢因幡入道殿〈丹波国桐野河内段銭〉」とあり,伊勢氏が知行していることがわかる(群書28)伊勢氏は室町幕府政所執事を世襲した家である下って室町期の文明5年9月4日,幕府は,「御料所丹波国美濃田保并同国桐野河内」の年貢運送に際して,伊勢貞宗代官の印券を持つ者を通過させるよう細川荘政所に命じた(親元日記)翌文明6年6月13日,幕府は「御料所桐野河内村内武正左京亮方跡名田畠等」を養子弥太郎に安堵している(古文書集/大日料8-7)また,同年12月29日には,当地年貢銭のうち13貫600文を淵田某に,同じく13貫600文を上田小五郎に給分として与えている(蜷川家文書3)同8年7月25日,幕府は伊勢貞宗に「御料所丹波国桐野河内村内安養寺分」の年貢を沙汰することおよび尊勝院の下地領有を命じている(古文書/大日料8-9)また同年11月10日,幕府は当地に乱入した群盗追捕を丹波守護代内藤元貞に命じた(同前)同9年9月6日,幕府は当地の寺社以下免除の地および諸検断などを伊勢貞宗に命じ(古文書/大日料8-9),同年9月6日には,丹波守護代内藤元貞に命じて被官人等の当地の寺社領に対する違乱を停止させた(同前)長享3年6月27日,伊勢貞宗は自亭の修理のため当地などに段銭を課している(古文書集/大日料8-28)下って文亀元年11月25日,当地に隣接する玉泉寺領佐切村について,寺家の沙汰とするよう「桐野河内名主百姓中」に命じている(蜷川家文書24)また永正2年2月24日の管領代秀兼奉書では,「桐野河内総下司職」などが隣村の高屋宗右衛門尉に安堵されている(蜷川家文書3)同7年12月15日,伊勢貞陸は「丹州桐野河内村之内安養寺分」の代官職を,曇華院某に付した(古文書集/大日料9-2)そして,同8年12月30日には,幕府は伊勢貞陸に当地を安堵している(同前/大日料9-3)しかし,享禄2年3月13日の元蓮奉書によると,前年の旱損によって年貢が納まらず,洛中洛外の米屋から進納させている(蜷川家文書24)天文3年8月23日および同4年3月15日の室町幕府奉行人連署奉書では,守護代内藤氏および在地の名主百姓らに対し,年貢未進を停止するよう命じている(同前24・3)このように,伊勢氏は守護代および在地武士などの押妨・抑留にあいながらも当地の代官として知行していた一方,室町幕府政所代であった蜷川氏も当地の支配に深くかかわっており,蜷川親元の「親元日記」および親俊の「親俊日記」に当地のことが散見する「親俊日記」天文7年正月5日条に「桐野河内」から御供若菜が京上されたことが記されており,5月17日には親俊は当地の供御米が押領されていることを幕府奉行人に訴えているまた7月29日には,当地の人夫が八朔俵20・畳面20などを進納している翌8年3月4日条には,当地よりの草夫が3月3日から4月8日まで祗候するのが通例であったが,近年は当地の諸侍が守護の被官と号して勤仕しないと嘆いているそして,10月14日には丹波守護細川氏の家臣茨木長隆が親俊の訴えで,当地の名主百姓中に年貢を納めるよう命じたしかし,この件はなかなか実行されなかったようで,長隆は11月19日には守護代波多野氏と当地名主百姓に供御米の京進を命じているその後,同11年6月11日にも「御料所桐野河内村之内押領分事」が問題となっており,在京中の守護代波多野に仰せ付けるよう守護細川氏に依頼している(以上,親俊日記)天文15年11月20日の室町幕府奉行人連署奉書では守護使不入の地として矢銭・兵糧を当地に課すことを停止し,伊勢氏代官の支配に任せるよう命じている(蜷川家文書3)しかし,天文22年伊勢氏は代官を改替される同年8月16日の室町幕府奉行人連署奉書によると,伊勢貞孝が「御敵」の三好長慶に与同したことにより,幕府は当地の代官職を井上孫七郎に与えた(同前)しかし,やがて将軍足利義輝と長慶は和睦し,当地の代官職は伊勢貞孝に返却されたまた「讒拾抄」の永禄5年正月条にも「桐野河内代官」とあり,当地から供御米が1・3・6・8・9・11の各月に進納されていたことがわかる下って永禄12年10月10日の織田信長安堵状に「丹波国桐野河内三方分半分」とあり,伊勢氏に安堵されている(伊勢文書/織田信長文書の研究上)一方前述したように,当地には北野社領があり,長禄2年4月16日の足利義政御判御教書によると,「丹波国桐野牧河内村拾七町」などを北野宮寺に還付している(北野神社文書4)そして,4月20日当地を松梅院禅親代に沙汰付するよう,丹波守護代内藤弾正忠に命じられた(北野神社引付2)なお文正元年10月日の北野宮御領所々御年貢目録には「丹波国桐野河内御年貢銭」は140貫文であった(蜷川家文書12)下って,文明5年2月日付の北野社社領諸国所々目録にも「同国桐野牧河内村,村内田地十漆町」とある(同前/荘園志料上)「北野社家引付」長享2年11月11日条に「一,御料所桐野河内村之内熊崎村御年貢米北野分事」とあり,前述の17町は熊崎村にあったものと推定されるなお,この当時当地からの年貢は55石であったまた,「親元日記」寛正6年5月4日条によると,「桐野河内村内高山寺田」3反(1反は明徳2年,2反は応安7年の寄進)が存在し,幡根寺と相論があったまた,「宣胤卿記」延徳元年11月14日条に「法成寺領丹波国桐野河内村本所分事」とあり,関白一条兼良は当地の本所分を法成寺公文所福千代丸に安堵し,堂宇を再興させようとしているなお「実隆公記」に当地が散見する三条西実隆と当地との関係は不明である明応6年9月29日条によると,「桐野河内」より苧公事代官である片山加賀守が莚20枚,柿・松茸などを年貢として送付している以後片山氏は文亀・永正・大永年間(終見は大永4年8月25日条)にかけて,代官として莚を実隆のもとに京進している当地は麻の特産地でもあった江戸期の上河内村を中心とした地域,現在の園部町内林町・曽我谷・瓜生野・熊崎・新堂・千妻・上木崎町・船岡・越方・高屋・大戸・佐切などの地域に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7375785 |