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新町(近世〜近代)


江戸期~現在の町名1~14丁目がある明治14~22年には伏見を冠称伏見町のうち南組新町筋14町新町通沿いに南から1~14丁目が連なり,4・5丁目の間を大手筋,6・7丁目の間を毛利橋通,8・9丁目の間を下板橋通,10・11丁目の間を丹波橋通,12・13丁目の間を上板橋通,14丁目の北を津知橋通が通る豊公伏見城ノ図では町名の記載はないが,町の東側は大部分が町家地で,5丁目は御屋敷改役所,7丁目は銀座の敷地となっている西側は武家屋敷地で,1丁目に堀内図書,2丁目に丹羽五郎左衛門,4丁目に中川半左衛門・柘植平右衛門,5丁目に花房志摩守,5~6丁目にかけて猪子内匠,6丁目に船越左衛門,7丁目に小出四郎兵衛・佐々信濃守,8丁目に太田越中守・竹中貞右衛門,9丁目に福原三十郎・平野清右衛門,10丁目に滝川豊前守・佐藤勘左衛門,11丁目に布施屋新介,11~12丁目にかけて村瀬左馬頭,12丁目に毛利伊勢守,13~14丁目にかけて前田孫四郎(利長),14丁目に山内対馬守の屋敷が並ぶ「府地誌」によれば,1~4丁目は荒地を伏見城築城の時に開拓して成立した町,5~7丁目は銀座の局内地にあたっていたという伏見城廃城ののち,武家屋敷は廃絶,跡地は耕地・松林と化したが慶長年中に町地となったなお「新市域各町誌」によれば,13~14丁目にあった利長の屋敷は寛永年間に取りはらわれ,元禄4年深草の住人高田忠兵衛によって町地とされたという寛文10年山城国伏見街衢並近郊図では新町通1~14丁目と見え,大部分が町家区域であるが,7~10丁目は一部が寺地,12~14丁目は西側が松林となっている寺院は,7丁目には東側北部に浄土真宗本願寺派勝竜寺(別名南山御坊),西側北部町家裏に西来寺,その他浄土真宗本願寺派永勝寺,浄土宗鎮西派黒谷金戒光明寺末西楽寺・浄林庵がある永勝寺は文禄4年僧法春によって開かれ,西楽寺は天正元年僧専誉を開基として創建された(府地誌)浄林庵は明治維新の際廃寺となった8丁目には西側北部に真宗大谷派心西寺(真西寺)があり,寛永2年5月の創建,僧真誓を開基とする9丁目には西側南部に慶長5年僧日術を開基とする日蓮宗妙顕寺末泉経寺があり,10丁目には西側北部町家裏に勝念寺がある山城国伏見街衢並近郊図によると,松林について注記に「丹波橋よりほり留迄,土手松林,長二百五拾三間,幅三間より五間迄」とあるまた「新市域各町誌」によれば,2丁目と3丁目の境を牢之図子,7丁目と8丁目の境を西楽図子,9丁目と10丁目の境を代官図子がそれぞれ東西に貫通し,3丁目から西楽図子までの道は寛永以後に開通したもので,当町名の由来になっているというなお牢之図子は,文禄年間ここに牢屋があったことから名付けられたもので,のちに京都憲兵分隊伏見分達所の官舎が置かれた「伏見大概記」および「泰平俯見御役鑑」では新町筋1~14丁目と見える1丁目には糖売買会所を営む河内屋七兵衛(伏見鑑),造酒家鮒屋五兵衛(天明八年御尋正徳年中以後造酒株内訳書・寛政九年造酒屋株帳)が居住したまた「京羽二重織留」には町家裏に伏見院陵があると記されているが,これは後崇光院太上天皇松林院陵で,御陵道が1丁目から付けられている(伏見町誌)2丁目には鍼医森元立宣が,3丁目には左官仲間の年寄升や忠兵衛や屎尿問屋の年寄升屋文右衛門が居住(伏見鑑)4丁目には鍛冶職を営む包守源四郎(京羽二重織留)や文珠かじと呼ばれる包守清右衛門(伏見鑑)が居住していたまた,寛政3年には読書・算術を教える私塾として奥野精一が原思軒を開設し,明治4年頃に全盛時代を迎えた(日本教育史資料)さらに同5年10月三木善成他6名の有志が図書の閲覧を業務とする伏見集書会社を大阪町に設立,のち4丁目に移転して開始後約5年で解散したが,伏見における図書館事業の端緒となった(伏見町誌)6丁目には新町毛利橋かどに茨木屋市兵衛の営む御茶詰御奉行宿があったまた畳屋仲間の年寄畳屋宇兵衛(伏見鑑)や鍛冶師包守清兵衛(京羽二重織留)が居住していた明治維新頃まで修験道地福院があったが,その後廃された(伏見町誌)7丁目には大工仲間下組の年寄半兵衛が居住(伏見鑑)8丁目には綿延売買会所の河内屋平兵衛,有馬錐かじの有馬治左衛門,乗物針かじの有馬平左衛門,関かじ高信半兵衛,真鍮赤打箔屋の河内屋宇兵衛,油扇子屋骨屋仲間の年寄骨屋忠兵衛,鉄物かじ仲間の年寄河内屋平兵衛らが居住していた(伏見鑑)さらに文久3年から明治5年までの間,読書ならびに算術を教える私塾の蟠竜堂が久連松良純によって開かれ,慶応2年に最盛期をむかえた(日本教育史資料)9丁目には「伏見鑑」によると大名仙石弥兵衛の屋敷があり,名代堺屋忠左衛門も居住していたとあるが,「伏見大概記」に仙石兵庫様御殿なしとあり,留守居に伊庭二郎右衛門がおり町役は5軒役であったほかに真鍮赤打箔屋大和屋与兵衛が住んでいた(伏見鑑)10丁目には萱葺師与十郎並びに佐兵衛(伏見鑑)や造酒家鍵屋六兵衛(天明八年御尋正徳年中以後造酒株内訳書・寛政九年造酒屋株帳)が居住していた11丁目には真鍮赤打箔屋のひし屋金蔵が,12丁目には丹後宿を営む丹後屋源四郎が居住(伏見鑑)天保頃の軒数は1丁目44軒,2丁目19軒,3丁目23軒,4丁目30軒,5丁目27軒,6丁目25軒,7丁目27軒,8丁目27軒,9丁目28軒,10丁目27軒,11丁目29軒,12丁目25軒,13丁目16軒,14丁目31軒,合計378軒(伏見町誌)明治元年1番組,同5年伏見第14区,同7年第4区,同12年伏水第6組に所属同14年1月紀伊【きい】郡第10組,同年10月鍋島町外27か町連合,同17年両替町1丁目外27か町連合のうちとなる同22年伏見町新町1~14丁目,昭和4年伏見市新町1~14丁目,同6年伏見区新町1~14丁目となり現在に至る明治17年10丁目に伏見豆腐商組合が置かれ,昭和元年の組合員数40であった明治44年,桜井利三郎・伴金三郎・中野種一郎らを発起人として資本金25万円で伏見瓦斯株式会社が創立され,11丁目に本社を置いたが,大正2年京都瓦斯株式会社と合併解散し,同社の伏見出張所となった大正13年には伏見町公設市場が置かれた同年5丁目に畳工商業組合が置かれ,昭和元年には組合員数22を数えたまた同4年6丁目に伏見電話分局が置かれていた(伏見町誌)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7377204