丹波国

天正7年織田信長より当国を与えられた明智光秀が同10年山崎の戦いで滅ぼされると,当国は豊臣秀吉の統治するところとなった。秀吉は信長の第4子羽柴秀勝(次丸)を亀山城において1国を支配させ,堀尾吉晴を氷上郡黒井において後見させた。また杉原家次を北丹の要地である福知山に2万石で配置し,秀勝の後見にあたらせた。秀勝(次丸)は天正13年に死去し,跡に豊臣秀勝(小吉)が入部したが,同18年甲斐国に移った。これに代わって文禄年間には小早川秀秋が入封し,明智光秀築城の亀山城を改修したといわれる。しかし,秀秋も文禄4年には備前岡山に転封し,その後には前田玄以が5万石として入部し,同時に西丹の押さえであった多紀郡八上【やかみ】城をも支配した。他方,福知山城は,杉原家次の死後に小野木重勝が3万石余で領有した。豊臣政権期にはほかに何鹿郡山家に谷衛友が1万6,000石余,同上林に高田治忠が1万石余,船井郡園部に別所重宗・吉治が1万5,000石余,氷上郡柏原には慶長3年織田信包が1万6,000石余をそれぞれ領有し,そのほか生熊長勝2万石余,石川貞通1万2,000石余,木下俊定1万石余も当国内に所領を有していた。この間,豊臣政権によって検地が行われ,片桐且元らによる天正15年の桑田郡小塩村・氷上郡棚原村・同郡金屋村・多紀郡奥谷村の検地帳,また前田玄以による文禄3年の多紀郡大沢村,同5年の桑田郡辻村・同郡中江村・同郡小塩村の検地帳などが残存する。また,「丹波氷上郡志」に所収されている文禄年間の氷上郡村高辻帳に一部が脱落しているだけで,郡の大半の検地高を知ることができる。慶長3年の検地目録(大日本租税志)に見える丹波国1国の総石高26万3,887石はこれらの太閤検地の結果を表していると思われる。なお,同年の蔵納目録(同前)によれば,当国には秀吉の蔵入地5万5,174石があり,当国総石高の21%を占める。当国が豊臣政権の重要な財政的基礎の1つとして位置づけられていたと考えられる。慶長5年の関ケ原の戦の戦後処理によって諸大名の配置は大幅に変化する。小野木重勝は亀山で自決して没収されたほか生熊長勝・石川貞通・高田治忠・木下俊定も所領を没収された。他方,山家の谷衛友,柏原の織田信包,亀山の前田玄以,園部の別所吉治は旧領を安堵された。ただし,前田玄以が慶長7年に死去すると亀山は幕府領となり,玄以の子茂勝は八上城5万石に移封されたが,同13年狂気を理由に改易された。こうして豊臣政権の所領配置が次々と崩され,徳川政権による所領が設定されていく。すなわち,慶長5年には福知山に有馬豊氏が遠江国より6万1,000石で入封,同13年には八上に松平(松井)康重が前田茂勝に代わって入部,同14年には亀山に岡部長盛が下総国より3万2,000石として入封した。いずれも譜代の大名であった。そして徳川家康は慶長13年から15年にかけて藤堂高虎を奉行として西国大名を動員させて篠山・亀山の両城を築城させた。山陰道要害の地として徳川政権もまた当国を重視したのである。大坂の陣後,当国の大名配置はいっそう整備されていく。福知山藩は元和7年岡部長盛が亀山より移封,以後稲葉氏・松平(深溝)氏を経て寛文9年朽木稙昌が3万2,000石として入封し,幕末まで13代続く。所領は,稲葉・松平氏時代には天田郡のほぼ全域79か村・4万450石と,何鹿郡8か村・5,460石であったが,朽木氏時代には天田郡中西部3万8,000石に縮小した。亀山藩は元和7年岡部氏に代わって松平(大給)成重が2万2,200石で入封,以後寛永11年菅沼氏,慶安元年松平(藤井)氏,貞享3年久世氏,元禄10年井上氏,同15年青山氏とめまぐるしく領主交替が行われ,寛延元年篠山から松平(形原)信岑が5万石で移り,幕末まで8代続く。所領は桑田郡55か村・1万8,663石,氷上郡22か村・9,623石,船井郡26か村・8,415石,多紀郡5か村・1,299石。ほかに備中国に1万2,000石の飛地があった。篠山藩は慶長13年松平(松井)康重が常陸国より5万石で入封して成立するが,以後元和5年松平(藤井)氏,慶安2年松平(形原)氏が入封,寛延元年に松平(形原)信岑の時亀山藩主青山忠朝と交代の形で転封し,以後幕末まで青山氏の支配が続いた。所領は多紀郡のほぼ全域109か村・4万3,846石と桑田郡35か村・4,958石。文政10年青山忠祐が老中に就任して1万石を加増されるが,加増分は桑田・船井両郡に散在する。園部藩は元和5年小出吉親が但馬国より2万9,700石で入封し,以後幕末まで領有。所領は船井郡131か村・2万716石,桑田郡52か村・5,110石,何鹿郡10か村・1,885石。綾部藩は元和元年別所吉治が但馬国より2万石で入封,寛永5年に除封され,一時幕府領であったと考えられるが,寛永10年九鬼隆季が2万石で入部し,幕末まで続く。所領は,何鹿郡西部の8か村・1万2,743石と天田郡南部の19か村・6,757石。柏原藩は織田氏が信包―信則―信勝と続くが,慶安3年に無嗣絶家,元禄8年改めて織田信休が大和国より2万石で入封,以後幕末まで10代続いた。所領ははじめは氷上郡西部の秀吉蔵入地を中心に3万6,000石を有したが,再興後は氷上・何鹿・天田各郡に散在した。山家藩は谷衛友が1万6,000石を安堵され,寛永5年衛政の時衛冬に1,500石,衛之に2,500石,衛清に2,000石を分与して旗本とし,残り1万石として幕末に至る。所領は何鹿郡北中部にあった。「正保郷帳」によれば,総石高28万9,829石で,このうち7藩領が82%の22万7,337石を占め,残余を摂津三田【さんだ】藩と伊勢松坂藩の国外大名の飛地や20数名の旗本,禁裏御料,二条家領,寺社領に分け与えられている。幕府領もわずかながら散在していた。「元禄郷帳」では,桑田郡214か村・5万385石余,船井郡204か村・4万2,313石余,何鹿郡77か村・4万1,305石余,天田郡104か村・5万106石余,氷上郡171か村・6万4,169石余,多紀郡132か村・4万5,164石余で,総計902か村・29万3,445石余。国外大名の飛地として摂津三田藩をはじめ同高槻藩・近江山上藩・三河刈谷藩・同奥殿藩・武蔵岡部藩・上総勝浦藩・同飯野藩・陸奥湯長谷藩などがあった。「天保郷帳」では,桑田郡215か村・5万6,805石余,船井郡203か村・5万3,256石余,何鹿郡71か村・4万2,361石余,天田郡104か村・5万915石余,氷上郡173か村・6万8,546石余,多紀郡114か村・5万2,250石余で,計880か村・32万4,136石余。当国は以上のような所領を構成していたが,同時に上方8か国として京都所司代の管轄下に置かれていた。各藩は,17世紀に検地を施行し,また新田開発を奨励し,近世的な村落と本百姓体制の確立に努力した。しかし,国内からは近世大名を生みださなかったため,村落には中世以来の土豪が根強く残った。篠山藩では土豪による年貢請負の郷代官制から村請制・大庄屋制へと展開するための農政を積極的に推し進めている。だが,土豪層は領主の差異をこえて同苗集団をつくり,山国【やまぐに】地方などには郷土村落といった形が長く残った。自然に恵まれたうえに京に近いこともあって当国には特産物が多く,正保2年刊の「毛吹草」には前胡・桔梗・茯苓・款冬・似人参・苅安・椿灰・辛灰・ミササキノ灰・蝋・松茸・又旅・独活・大納言小豆・林檎・木瓜実・梨・鮎・山椒魚・鹿皮・畳表・亀山花落米・山国椙丸太・杉皮・筆柿・弓削山弓絃葉・和智糸・綿・煎茶・胡桃・父打栗・野々村多葉粉・箸木・鞘木・雀部矢根・鑓・刀ノミガキ・太布・前垂・蚊帳・笊籬・佐原墨・葉茶壺・山椒・同皮をあげている。特に桑田郡山国・黒田の材木は豊臣秀吉が普請用として着目して以来有名で,保津川の筏で運んだ。近世中期以降には亀山の寒天や何鹿郡の黒谷和紙なども特産品となり,また摂津灘地方への百日酒造出稼は丹波杜氏として有名である。明治初年刊の「日本地誌略物産弁」には石炭・砥石・燧石・木材・煙草・栗・柿・桑・梨・松茸・薪・炭・茶・綿・生糸・蜂蜜・綿布・蝋・黄蓮・桑酒・藺蓆・川魚などを産物として記す。街道は京からの山陰道が亀山~園部~福知山を通って但馬に至り,これを主幹線として各城下町を結び,また周辺諸国へ至る街道が網の目状に通じている。河川交通では慶長11年角倉了以によって開かれた保津川や日本海舟運と結びつく由良川の舟運が主なもので,物資集散の重要な役割を果たした。諸藩はその財政難を打開するためにこれらの特産品や農民の余業を収奪の対象として増徴策を試みた。御用金賦課や藩札の発行はもとより,茶・煙草・桑・木綿などの商品生産の専売制や篠山藩の酒造出稼への統制などがその代表的なもので,綾部藩主九鬼氏は佐藤信淵を招いて専売制を実施している。このような増徴策は,自然災害・飢饉などとあいまって農民の反感を強め,享保期以降には各藩で数千人規模の惣百姓の全藩一揆が続出した。享保19年には福知山藩,宝暦2年には綾部藩で一揆が起こっているが,篠山藩では宝永元年から宝暦・明和期にかけてしばしば一揆が発生している。近世後期には打毀を伴うものへと発展し,当国の領主支配も次第にゆらいでいった。慶応4年1月には山陰道鎮撫総督西園寺公望の一行が当国に入国し,これには桑田・船井郡の郷士・村落上層農民が山国隊・弓箭隊として参加した。こうして諸藩は新政府に帰順し,当国も明治維新政府の中央集権的な国家支配のなかに組みこまれていった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7377896 |