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鳥戸郷(古代)


奈良期~平安期に見える郷名「和名抄」山城国愛宕【おたぎ】郡十二郷の1つ刊本の訓は「止利倍」,高山寺本の訓は「度利戸」東山山麓,東西を阿弥陀峰・鴨川に限られた清水寺・清閑寺・今熊野・泉涌寺あたりに比定され,愛宕郡条里の1条2・3里,2条2・3里を占めたと推定されているその名称について「山城国風土記」逸文鳥部里条(存疑)に「山城の国の風土記に云はく,南鳥部の里鳥部と称ふは,秦公伊呂具が的の餅,鳥と化りて,飛び去き居りき其の所の森を鳥部と云ふ」とある天平15年正月7日付智識優婆塞等貢進文に「秦三田次 年卅八 山背国愛宕郡鳥部郷粟田朝臣弓張戸口」とあるのが初見(正倉院文書)その後,「三代実録」元慶8年12月20日条に,「贈皇太后藤原氏(沢子)鳥戸山陵在山城国愛宕郡」とあるこれより前同年同月16日条には,「是日,定贈皇太后山城国愛宕郡中尾山陵四至之堺,東限谷,南田,西隍,北谷,有山四町五段」とあり,この仁明天皇女御藤原沢子の中尾山陵に関しては,「延喜式」諸陵寮式に「中尾陵 贈皇太后藤原氏 在山城国愛宕郡鳥部郷,陵戸五烟,山四町五段,四至,東限谷,南限田,西限隍,北限谷」と記されている先の鳥戸山陵とは,所在郷名により,中尾陵のことをこのように称したらしい「陵墓要覧」には,「女御 贈皇太后沢子 中尾陵 京都府京都市東山区今熊野宝蔵町」とあるまた,「三代実録」元慶8年12月25日条には,「勅以山城国愛宕郡鳥戸郷地四町,為贈正一位藤原朝臣総継墓地」とあり,当郷には四条家の父娘の陵墓の存在が知られる同書仁和3年5月16日条には,「勅以山城国愛宕郡鳥部郷原村地五町賜施薬院,其四至,東限徳仙寺,西限谷并公田,南限内蔵寮支子園并谷,北限山陵并公田」とあり,「鳥部郷原村」という中尾山陵の南の村を,施薬院が領したことが知られるまた先の記事に続いて,「院所領之山,元在彼村,即是藤原氏之葬地也」とあるように,原村を含む鳥戸郷の一帯,鳥戸野は平安京開都以来,葬送の地,墓地となっていた葬送の地として文献にあらわれる鳥戸野の早い例は,天長3年5月10日の淳和天皇皇子恒世親王の死去の記事である(日本紀略)これには「葬恒世親王於山城国愛宕郡鳥部寺以南」とあり,同年6月10日には嵯峨天皇皇女俊子内親王が死去し「葬山城国愛宕郡愛宕寺以南山」と見える(同前)愛宕寺も鳥部寺をさすと考えられ,鳥部寺は現在の妙法院前側町付近に所在したとされている寺院であるまた,天長4年には大僧都勤操を「荼東山鳥部南麓」と記している(性霊集)時代は下るが,長保2年12月に没した藤原定子の鳥戸野陵は,今熊野泉山町に比定され,女御藤原苡子も鳥戸野南に葬られている(本朝世紀,康和5年2月条)これらの記事によると,葬送地は鳥戸野の南方が中心であったことが知られるただ,正暦元年7月に死去した摂政藤原兼家は「鳥部野北辺」に葬送されているいわゆる鳥戸野南方を中心として,広く鳥戸野に及ぶ地が葬送地とされていたと考えられようその後も鳥戸野に葬送する記事は散見する東三条院藤原詮子(扶桑略記,長保3年閏12月24日条),藤原道長(栄花物語,万寿4年12月),東宮実仁親王(扶桑略記,応徳2年11月28日条),藤原頼通北政所(中右記,寛治元年12月7日条),藤原信通(中右記,保安元年10月27日条)など貴人の葬送が鳥戸野でひんぱんに行われたそしてやがて,「徒然草」に「あだし野の露きゆる時なく,鳥部山の烟立ちさらで」と述べられるほど,代表的な葬地となるまた,10世紀末より11世紀にかけて,鳥戸野では僧侶の焚死が続いた長徳元年9月には六波羅蜜寺の僧覚信が(百錬抄),万寿3年7月には尼僧が(左経記),治暦2年5月には釈迦院の僧文豪が,それぞれ焚死により往生を遂げんとしているなお鳥戸野南方を中心とする葬地鳥戸野が,現在のように西大谷の東北に範囲がせばめられたのは,鎌倉期に親鸞の西大谷が建立され,その背後に墓地が増え,鳥辺野の名を専有しはじめた上に,江戸初期に豊国廟の造営により付近の火葬に制限が加わったためである




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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