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廿人講町(近世〜近代)


江戸期~現在の町名正面通烏丸東入から間之町までの町町の形成は慶長7年以後と推測される承応2年の新改洛陽並洛外之図や版行絵図は,当町東側を「廿人かう丁」,西側を「中シュスや丁」と記す天明6年洛中洛外大図および天保2年京町絵図細見大成では「廿人講丁」と記す町名は,熱心に法話の会を持ち廻った信者が20人いたという故事に由来するという幕末期,町内には袈裟衣を扱う東門徒の枡屋次郎兵衛が居住(ちまたの風聞)江戸期は東本願寺寺内町古屋敷明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】20番組,同5年第30区と改称,同25年第30学区に編成明治12年下京区廿人講町,同22年京都市下京区廿人講町となり,現在に至る明治10年代には町内に郵便切手売下所が設置されていた(府地誌)同44年の世帯数55・人口346大正14年の世帯数38・人口240,昭和40年の世帯数74・人口194,人口増減率(昭和40~50年)8.2%減




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7378849