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野々村荘(中世)


鎌倉期~戦国期に見える荘園名丹波国桑田郡のうち承久2年11月13日,草部末友が4男2女に所帯を譲っているが,そのうち三郎男友成に譲られた分の中に「野々村御庄御問」と見える(摂津鹿田文書/鎌遺2670)次いで,「葉黄記」宝治2年閏12月3日条に「丹波国野々村郷,本為庄号,二品知行之時,被国預了,以後充給女房,以山田庄,可返給良盛之由申」と見え,一時,源頼朝の管領であった当荘が,その後女房某に宛行われたことが知られるその後,建武3年9月18日に民部権大夫宛てに足利尊氏御教書が出され,「丹波国葛野庄・野々村庄」等が安堵されているが,民部権大夫と前の女房との関りは未詳暦応元年10月4日夜,仁和寺河窪准后御所の保安寺へ盗人が入ったが,そこで「御領重書」を盗み取られた一条殿局の雑掌が同3年9月18日,「丹波国野々村庄」などの文書等紛失状を作成しており,南北朝初頭には一条殿女房が領主であったまた,応仁17年8月23日の建仁寺領諸国注進目録には「一丹波国夜久郷板生村野々村両地頭職」と見えるが(建仁寺文書/北桑田郡誌),建仁寺が地頭職を帯するに至った事情も未詳下って,文亀3年5月13日には「聴松院領丹波国野々村庄 川上滝□井 下限河合落合」の殺生を禁じた大和守藤原朝臣・筑後守紀朝臣連署禁制木札が出されており(南禅寺文書),また,年未詳7月13日付で川勝兵衛大夫給人らの動員を求めた羽柴長秀書出には「野々村庄内中」と見える(記録御用所)荘域は未詳だが,美山町南西部の由良川流域にかなり広大な荘域を有したか美山町宮脇の道祖神社は木梨軽皇子・神武天皇・五瀬命を祀るが,その氏子圏はかつては同町宮脇・板橋・下吉田・原・和泉・上司・長谷・島・萱野・深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・内久保・荒倉に及んでいた木梨軽皇子には当地方の開拓にまつわる伝承があり,道祖神社の氏子圏が荘域にあたるものとも推測されている(北桑田郡誌)なお,江戸期には棚野川下流域の野々中村が別名野々村中村とも称し,萱野村西方の大野村が野々村を冠称していたこの両村も野々村荘の荘域にあったものであろうか




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7378950