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味原牧(中世)


平安期~室町期に見える牧名摂津国島下郡・西成【にしなり】郡のうち「あじふのまき」とも称した元慶8年9月1日の太政官符(類聚三代格)に「応復旧行味原牧乳牛課法年限事」とあるのが初見これは元慶5年に典薬寮頭の源道が同寮の別院にある乳牛院に逓送する牛の年限を延伸したため繁殖不良になり,牧子の逃散もあったので旧に復することを命じたものであるまた「延喜式」巻37の典薬寮の項にも当牧名が見え,これによると生益の牡牛は薬園の耕作にあて,かつ父牛となし,その死牛の皮は売って寮の修理料にせよとある典薬寮が乳牛を提供することから当牧は後に乳牛牧とも呼ばれたその所在は宇治関白高野御参詣記の永承3年10月11日条に,「就中乳牛牧前水絶瀬改,弥有往還之煩,而江口瀬間,以葦拵垣」とあり,乳牛牧は江口の淀川上流部と考えられる(続々群5)しかし「遊女記」には「(淀川が)分流向河内国,謂之江口,盖典薬寮味原牧,掃部寮大庭庄也」とあり,当牧は淀川が分流する江口の下流部に所在する(朝野群載巻3)これは天福2年6月日の沙弥阿舜畠地売券(勝尾寺文書/鎌遺4678)に「在味原御牧領内字今樋外嶋」と見え,その四至に「限東国分寺境并池中際」とあるところから,当牧は草苅国分寺領の西の地にあたるまた勝尾寺文書中の文暦2年10月16日のトヨ澄守弘畠地売券案(鎌遺4826)に「在味原御牧領内字置縄,但現地壱段半」とある畠は,年月日未詳の勝尾寺田草苅田畠坪付所当注文(同前/箕面市史史料編2)に「〈乳牛牧内〉一反半〈置縄〉作人土用石二郎」と見える畠と同じもので,草苅にあった当牧も室町期には乳牛牧と呼ばれているしたがって当牧は江口の上流部は摂津市の味生の地に下流部は大阪市の東淀川区に広く分布していたまた大阪市天王寺区に味原町の地名が残っているが,これは旧東成【ひがしなり】郡に属し,古代には河内の入江や北流する平野川の東辺にあたり,ここにも味原牧が分置されていたとも考えられるが,詳細は不明なお草苅の地にあたる東淀川区には大隅神社が現存し,当牧が古代の大隅牧から発展して典薬領の牛牧になったかとも考えられる前後するが,仁安2年12月10日の典薬寮解(兵範記紙背文書/平遣3441)には「供御所摂津国味原牧」と見え,「件味原牧并地黄御薗者,自往古為供御之地」とあり,平安末期には荘園化して典薬寮の供御所に変わり,同寮は国司による八十島雑事などの国役負課の免除を訴えている下って,室町期には乳牛牧として多く史料に見られ,文安4年6月6日の崇禅寺領目録並室町幕府下知状案(藻井泰忠氏所蔵文書/吹田市史4)に「乳牛牧下司・公文・惣追捕使職等,参職事」とあり,当牧に下司・公文・惣追捕使が置かれていたこれより先の嘉吉2年4月29日の細川持賢寄進状(崇禅寺文書/同前)に「摂津国中嶋内乳牛牧闕所分」とあることにより,当牧の三職方は,嘉吉の乱で殺害された将軍足利義教の菩提を弔うために細川持賢が崇禅寺を建立し,これに欠所地であった当地を寄進したものである細川持賢が西成郡守護になったのは嘉吉元年閏9月で,それ以前は嘉吉の乱の首謀者赤松満祐であったから守護持賢が管轄した欠所地は嘉吉の乱と関係があるものと考えられる寛正2年12月26日の中嶋崇禅寺領目録(同前)の「乳牛牧内三職方田数之事」によれば,田15町余・麦畠9町4反余・芋畠2町5反余,三宝寺免田3町2反余となっており,それぞれ69石余・39石余・15貫余の分米・分麦・分銭が崇禅寺に納入されることになっている崇禅寺領のほかの所領では加地子徴収分のみの所もあるが,三職方では分米や分銭となっており,散在所領とはいえ崇禅寺が荘園領主となっているなお同目録の耕地の字名として大沢・三千沢・板加野・甲・平田などが見られ,それらの田畠は辻堂・三宝寺・大道・今在家・高畠・島・島頭・逆牧・三番・江口・草苅・水小路などの寺庵や農民によって請作されているこうしたことから崇禅寺領の乳牛牧は現在の東淀川区の東南部を中心に分布したものであり,摂津市域は含まれていないなお古代に味原郷が見えるが,当牧との関係は未詳である




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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