石山(中世)

戦国期に見える寺内町名摂津国東成【ひがしなり】郡生玉荘のうち古くは小坂【おさか】と称した明応5年本願寺8世蓮如は,堺の商人万代屋休意や,その一族で生玉荘4か村支配の松田五郎兵衛らの協力で,この地に一宇を建立,当地方布教の拠点とした(真宗懐古鈔・御文章)これが石山御坊であり,以後坊舎を中心に寺内町も発達したこの地は現在の大坂城の位置と考えられているが,その南寄りの法円坂にあったとする説もあるいずれにせよ上町台地の北端にあたり,東に旧大和川,北に淀川をひかえた要害の地で,京都や紀州,瀬戸内海方面に通ずる交通の要衝であった(府史)蓮如没後,妻の蓮能尼とその子実賢が住んでいたが,天文元年山科本願寺が六角定頼軍と京都の法華宗徒らに焼打されたため(私心記/石山日記,厳助往年記/続群30上),10世証如は逃れて寺基を石山に移し,本山と定めて石山本願寺と称した(私心記/石山日記)「証如日記」天文21年2月25日条(石山日記)に「蓮如之時,当年五十六年ニ成候,其時六人ニ仰付之,町之番屋,やぐら,橋,屏,くぎぬき,為此衆仕之」とあり,すでに明応6年番匠6人に命じて町造りが始められたようだが,当地が本山となった天文初年の頃より,周辺に門徒が群集して寺内町が急速に発展したこの石山本願寺寺内町は6町からなる新町と,4町の枝町によって構成されていたが(府史),その6町とは,北町・清水町・南町・北町屋・新屋敷・西町をいう(証如日記,天文23年正月朔日条/石山日記)これに天文4,5年より檜物屋町,青屋町を加え,天文11年には造作町・横町が成立して10町に拡広された(証如日記・私心記/石山日記)各町は水路と塀で囲まれており,それぞれ櫓や番屋がおかれ,門が設けられて釘貫で鎖ざされ,その鍵は本願寺に保管されていた(同前)町内には,鍛冶・桶結い・土器造・大工番匠などの手工業者,油屋・酒屋・絹屋・餅屋・墨屋などの商人が集住し(同前),その数も永禄5年には2,000軒といわれるまでに隆興した(厳助往年記/続群30上)各町には年寄・宿老・若衆がおかれ,他町との交渉,町内の運営にあたった(証如日記・私心記/石山日記)しかし,本願寺は寺内町住人に対する検断権,地子・年貢の徴収権を有し,さらに上級権力からの諸公事免除,徳政令除外対象の権利も獲得するなど,住人に対して強力な領主として臨んでいた(同前)元亀元年9月から11年にわたる織田信長との戦い,すなわち石山合戦を展開したが,天正8年閏3月5日正親町天皇の勅命により講和が成立し,11世顕如は紀伊国鷺森へと退去,徹底抗戦を主張した教如も同8月2日石山を開城し(本願寺文書・信長公記ほか),蓮如の創建以来85年目に寺内町としての幕をとじた現在の東区大阪城に比定する説が一般的であるが,その南寄りの東区法円坂町に比定する説もある

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7381324 |