100辞書・辞典一括検索

JLogos

54

交野(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える地名。交野郡のうち。交野荘・交野郷とも見える。「明月記」建仁2年2月17日条に「早旦聞,御幸片野方云々」とあり,後鳥羽上皇が水無瀬殿に御幸された際,当地にも足を延ばしていることがわかる。翌建仁3年5月14日条にも「可御片野〈非御狩,遊覧云々〉」とあり,水無瀬殿滞在中はしばしば御狩・遊覧などのため当地を訪れていた。建保6年4月の蔵人所牒写には「河内国交野禁野」とあり,天皇の御猟場と定められ,御鷹飼職が置かれていたことがわかる(中院家文書/鎌遺2371)。また「交野禁野司」も置かれていた(伝宣草下/群書7)。「中務内侍日記」によると,弘安7年9月に「きんやかた野」を見て「古もありとはかりはをとにきく交野のきゝすけふみつる哉」という歌を作っている(群書18)。一方当地には石清水八幡領大交野荘が成立しており,嘉禄3年8月10日の八幡宮司所司等解には「交野五箇庄神人等」という記載もあり,数多くの神人が居住していた(石清水文書/枚方市史6)。「中臣祐賢記」文永2年5月11日条によると,「河内国交野住人八幡神人蓮乗法師」という者が,御供田8反を耕作していた(春日社記録1/続大成)。また「榊葉集」には「交野窪庄住人権太郎」「交野御綱曳神人長畠田権太郎右衛門尉」が見えている(続群2上)。正和2年8月の後宇多院の高野山参詣を記した「後宇多院御幸記」(仙蹕記)にも「禁野交野ニカゝリ,八幡伏拝打過」とある(続群4上)。なお鎌倉期にも「新古今集」をはじめとして多くの和歌集に当地を歌った歌が載せられている。また「古今著聞集」には坊門忠信が当地で鹿狩りをしたことが見え,「沙石集」には西恩法師の和歌として「思出ヤ片野ノ御狩カリクラシ 返ルミナセノ山ノハノ月」が載せられている。南北朝期の建武5年7月日の野上彦太郎軍忠状には「自去三月十四日,属御手馳参片野抽軍忠訖」とあり,北朝方について北畠顕家と戦ったことが記されている(野上文書/大日料6-4)。また7月12日には諏訪部三郎入道信恵(扶重)が高師直の八幡攻撃に参加したあと「馳向禁野片野焼払在家等畢」と見える(三刀屋文書/同前)など戦場となることが多くなった。暦応元年11月12日の高師直御教書案では,「交野住人等」の本宅を安堵している(石清水文書6/大日古)。康永元年5月7日には石清水八幡宮の「交野五座神人」が河内守護細川顕氏と相論し,社頭に籠居している(中院一品記/大日料6-7)。この相論は長く続いたようで,「園太暦」文和元年4月24日条には「牧・片野住民不従武命之間,寄手陸奥守顕氏焼払歟」などと見える。応安7年4月3日には南朝方の楠木正勝らが,畠山氏の家臣が籠る片野城を攻め,落城させている(七巻冊子/集覧12)。下って戦国期の「蔭涼軒日録」長禄2年8月30日条に「当寺領玉櫛庄,交野神人押取二百貫文無謂事」とあり,石清水の神人の非法が記されている(続大成)。また「御湯殿上日記」の明応3年11月16日条には「かた野の御とりまいる」,同5年2月16日条には「かたのゝ光つう寺より御くわんしゆ,御ちや卅ふくろまいる」などと見え,当地より朝廷への献上物のことが見える。下って「春日社司祐禰記」永正5年7月24日条には,大和牢人が「片野ノ極楽寺」に籠ったため,古市新兵衛尉が木津山城衆を引き連れて当地に出陣,合戦となっている(八尾市史史料編)。また元亀3年5月10日の下間正秀書状(誓願寺文書/大日料10-9)によると同年4月16日には,三好義継・松永久秀らが畠山昭高の家臣安見新七郎の拠る交野城を攻め,織田信長がこれを救うため援軍を送っている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7382206