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楠葉牧(中世)


平安期~南北朝期に見える牧名河内国交野【かたの】郡のうち摂関家領「小右記」の永観2年11月23日条(古記録)に「楠葉御牧司等,為河内国司初(被カ)焼亡住宅」とあるのが初見東国から馬寮などに貢進された馬を飼育するため都の近辺に設置された牧のうちの1つで(拾遺抄註/群書16),「和名抄」に見える葛葉郷の地を拠点として成立したものと思われ,当牧は天野川を越え田宮郷にまで及ぶ広大なものとなった長和4年7月11日の「御堂関白記」に「播磨牧馬十疋引遣河内牧」と見える(古記録)が,これは左右馬寮直属の播磨国家島牧から当牧に送られたものである(西岡虎之助:荘園史の研究)同年9月8日条に「楠葉牧無寺有鐘云々,仍遣召,持参」とある「中右記」永久2年10月27日,11月1・6・7・10日条(大成)には御厩舎人秋里が当牧内で殺害された事件が記されているまた「台記別記」久安6年10月17日条および同26日条によれば,当牧は摂関家の春日詣での際に饗などを負担している(大成)なお同書仁平元年8月10日条から現在の船橋川か穂谷【ほたに】川を境にして楠葉河北牧・楠葉河南牧とよばれるようになったことがわかるまた「兵範記」保元元年7月19日条(同前)に「御厩別当 上資泰,楠葉牧可知行」とあり,同3年8月11日条には「楠葉牧 在河内国」と記されている「山槐記」応保元年12月23・24日条(同前)によれば,交野御鷹飼下毛野武安・知武と当牧住人の対立が激化し,住人が鷹飼を襲うという事件が起こっているこの頃当牧の住人には御牧の権威をかさに横暴な振る舞いがあったようで,応保2年10月日の円成院領星田南北荘住人等解(興福寺別当次第裏文書/平遺3231)でも星田南北荘に出作していた当牧住人が,「偏券(募)御牧権威,不勤仕有限所当并雑事」として訴えられている長寛2年6月日の惟宗忠行義絶状(兵範記裏文書/平遺3286)では「楠葉河北御牧下司清科行光」に関する暴力事件と義絶問題が詳細に述べられている当牧は土器の生産地としても有名で,治承3年の成立という「梁塵秘抄」に「楠葉の御牧の土器作り,土器は造れど娘の貌ぞよき,あな美しやな」と見え(古典大系),また「堤中納言物語」には「楠葉の御牧につくるなる河内鍋」とあり(同前),鎌倉期にも引き継がれていく「玉葉」文治3年10月15日条によれば摂政九条兼実は文治3年10月の石清水行幸の雑事を家領の各荘に負担させようとしたが,家領の多くは侵略され,わずかに当牧だけが芻秣を負担したその当牧にも鎌倉期に入ると春日社や石清水八幡の勢力が伸びてきて,牧住人の中にも春日社に田畠を寄進する者が出てきた建仁3年4月日の摂関家御厩下文案(春日若宮社家古文書/大日料4-7)によれば,当牧の住人曽禰則利が春日若宮御供田として田宮竹原郷内の田1町8反220歩を寄進し,その地の牧役雑公事の免除を願い出たので,九条良経は御厩別当を通じてその免除を認めるよう南条司(楠葉河南牧の牧司)に命じているこうして春日社は当牧内に御供田を獲得し,さらに有力住人を若宮神人として掌握した一方石清水八幡宮の勢力も,楠葉の弥勒寺が石清水支配になった嘉禎年間頃から当牧内に進出し始めたため,摂関家の支配力は後退していった南北朝期以後は,河北・河南の両牧が摂関家渡領として存続し,暦応5年正月の御摂籙渡荘目録(宮内庁書陵部所蔵文書/枚方市史6)に「前春宮大進頼為 河内国河南牧,前右兵衛佐在親朝臣 同河北牧」と見える




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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