100辞書・辞典一括検索

JLogos

36

黒鳥村(中世)


 鎌倉期~室町期に見える村名。和泉国和泉郡上泉荘のうち。すでに長和3年10月18日の宗岡光成解状案に「黒鳥道」が見える。もともと上泉郷と坂本郷との境界に位置し,両郷にわたって成立した村で,その開発は古代に及ぶものと思われる。村名の初見は建長8年5月25日の沙弥蓮覚山林荒野売券で,「上泉御庄梨子本里」の山林荒地18町が「黒鳥村安明寺」に売られている(河野家所蔵文書/日本史研究207)。この山林の四至は東が今恒領,西が白木谷西口,南が坂本堺道,北が風早谷領となっており,白木谷にあった白木池がその中に含まれていたとみられている(府史)。白木池については,寛治2年2月1日の酒人盛信解等によって大判官代の酒人氏が池預職を相伝していたことがわかるが(河野家所蔵文書/日本史研究207),酒人氏はこの権利を早く失ったものとみられる。正中2年3月22日,梨子本里地頭藤原資員は「上泉御庄梨子本里内山野拾捌町并白木谷池六底等」の進止権が黒鳥村安明寺に属すこと,地頭は違乱しないことを確認しているが,その際仁治元年に六波羅探題から「本主」の進退とする旨の下知が出されていることも確認されている。暦応2年6月日の安明寺置文によれば,安明寺は白木池用水を利用する耕地から「白木池段別米」を徴収しており,長禄2年11月15日の安明寺五座置文でも白木池の池料算用などは寺に属する在地講衆の進退とすることを定めている(同前)。五座を構成する在地講衆は黒鳥村の有力農民ないしは土豪とみられている(府史)。なお先の暦応2年6月の安明寺置文では国分寺涅槃会の造花を年預と住僧が整えるよう定めており,黒鳥村が国分寺の行事運営に関与していることがわかる。元徳2年4月23日の上泉荘梨子本里山野等宛行状(立石家文書/和泉市史1)では,「上泉庄梨子本里内山野十八丁内白木谷池六底」が,元は黒鳥村安明寺の進止であったという由緒により,改めて給主儀善房から寺に宛行われている。嘉暦4年7月16日の武守名主禅蓮田地売券(同前)では,「上条郷」黒鳥村19坪のうちの180歩が安明寺に売られており,その田には庁役50文の負担があった。これによれば当村付近を「上条郷」とも称したことになる。また元弘3年6月4日付で「上泉郷梨子本里内黒鳥村」が護良親王から宇佐美為成に宛行われている(脇家文書/和泉市史1)。正平8年正月19日の沙弥堯光飯荷譲状(立石家文書/同前)は,「黒鳥村飯荷」を嫡子彦太郎死去のため楠王丸に譲ったもので,堯光は飯荷(麹荷)1荷を伊勢神野村で販売する権利を先祖相伝としてもっていたが,方々に質入れし,質流れになるところを楠王丸が出挙8石,利銭700文を払って請けもどしてくれたという。正平16年7月19日,又二郎介は安明寺から500文を借り,10月に返済できないときは我孫子浜(現泉大津市)で麹を販売する権利を譲り渡すと約束している(河野家所蔵文書/日本史研究207)。正平24年6月17日の安明寺五座置文(同前)には,「定置黒鳥村惣□(物カ)色々事,於飯荷役者,五座□配分者也」とあり,僧座・本座・南座・新座・弥座の代表者が署判をし,違背なきことを神仏に誓っている。このうち本座の行阿弥陀仏は康暦2年7月5日の田地寄進状(同前)の「上村のきやうあミ」と同一人と見られるところから,村内に上村と称する垣内が存在したものと思われる。以上から,南北朝期には麹生産と販売に関する権利は黒鳥村の安明寺五座に属していたこと,その五座とは僧座・本座・南座・新座・弥座で,黒鳥村の土豪や有力農民によって構成されていたことなどがわかる(府史)。五座の支配下にあった麹の売場は伊勢神野・高石・上石津・我孫子浜・加守【かもり】・山直【やまだい】をはじめ和泉国全域にわたっている(同前)。五座は応永2年2月10日,安明寺八講料田などに関する置文を定め,応永5年12月25日には,公方から麹荷に役銭の賦課があった場合には五座と麹の販売者が協議して納入すること,少額の場合には五座より沙汰することを置文で定めている(河野家所蔵文書/日本史研究207)。なお長享2年11月23日,隣荘坂本荘の代官職をめぐる争いから,北村・野田新左衛門尉らが「黒鳥備光寺」へ入部しているが,25日に代官吉井のために追われている(北野社家日記1/纂集)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7382935