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摂津国


摂津国・河内国・和泉国一帯は,もと凡河内国【おおしこうちのくに】と称され,国造が置かれていた。難波津【なにわづ】は4世紀中葉から大陸や朝鮮半島に対する門戸として,外交・軍事・経済の諸側面において重要性を増したが,すでに神話伝承の頃から数多くの話題を提供してきた地でもあった。「日本書紀」神武天皇即位前紀条に「方に難波碕に到るときに,奔き潮有りて太だ急きに会ひぬ。因りて以て,名けて浪速国とす。亦浪華と曰ふ。今,難波と謂ふは訛れるなり」と見え,神武東征のとき潮流がきわめて急であったため,この地は浪速【なみはや】ないしは浪華【なみはな】と名づけられ,難波はその転訛であると伝えている。難波津には,応神天皇22年行宮として大隅宮【おおすみのみや】が置かれたほか,三韓・隋・唐からの外国使節接待機関としては継体朝の難波館,推古朝の高麗館,舒明朝の三韓館などが設置され,また仁徳元年難波高津宮【たかつのみや】,大化元年難波長柄豊碕宮【ながらとよさきのみや】,天平16年難波宮と3度都が置かれた。難波長柄豊碕宮において大化2年正月改新の詔が発せられたが,このとき東は名墾【なばり】の横河,南は紀伊の兄山【せのやま】,西は赤石【あかし】の櫛淵,北は近江狭々波【さざなみ】の合坂山を四至とする畿内の地域が明確化され,国郡里制の整備とともに四畿内・五畿内の制が実施されることとなった。摂津は大宰府が置かれた九州,京職が置かれた都とならんで特別の行政区となり,摂津職が設置された。摂津職は文字どおり難波津を摂する役所であっただけでなく,「令義解」職員令に「摂津職帯津国」と見えるとおり,津国【つのくに】すなわち難波津が存在する国を統治することをも兼ねていた。摂津職の設置時期や官衙の所在地については明らかでないが,その初見は「日本書紀」天武天皇6年条の「内大錦下丹比公麻呂を摂津職大夫とす」との記事。延暦12年3月の太政官符(類聚三代格)に「難波大宮既停,宜改職名為国」と見え,このとき難波宮の廃止に伴って摂津職も廃止され,それまでの津国の呼称から摂津国が正式の国名となった。「延喜式」は当国を畿内の第5国,上国としている。「律書残篇」の当国の郡数は12であったが,「和名抄」には住吉・百済【くだら】・東成【ひがしなり】・西成【にしなり】・島上・島下・豊島【てしま】・能勢・河辺【かわへ】・武庫・八部【やたへ】・兎原【うはら】・有馬【ありま】の13郡を載せる。このうち,百済郡は平安末期には名称・実態を喪失しており,年次不詳ながら廃絶して,その地は住吉・東生両郡に分属されたと考えられる。「和名抄」によれば当国の郷数は住吉5・百済3・東成5・西成12・島上5・島下4・豊島8・能勢3・河辺8・武庫8・八部5・兎原8・有馬5の計79郷を数える。現在の大阪府域に入るのは,住吉・百済・東成・西成・島上・島下・豊島・能勢の8郡で,残余は兵庫県域である。国府の所在地については明らかでない部分が多く,「国郡考」は当初国府が置かれた所を西成郡雄惟【おとも】郷御津とするが,確証はない。「日本後紀」延暦24年11月20日条に「遷摂津国治於江頭,許之」と見える。江頭は大江の渡辺の地を指し,現在の大阪市天満橋付近といわれる。その後,「日本紀略」天長2年4月10日条に「遷摂津国治於豊島郡家以南地」と見えるが,「続日本後紀」承和11年10月9日条には「依去天長二年正月廿一日・承和二年十一月廿五日両度勅旨,定河辺郡為奈野,可遷建国府,而今国弊民疲,不堪発役,望請,停遷彼曠野,便以鴻臚館為国府,且加修理者,勅聴之」と見え,豊島郡家以南地・河辺郡為奈野などへの遷置計画は実現されなかったらしく,承和11年鴻臚【こうろ】館(もとの難波館)が国府に転用された。国分寺については,現大阪市天王寺区国分町の天徳山国分寺が僧寺の後身,同東淀川区柴島【くにじま】の天平勝宝山法華寺が尼寺の後身といわれる。「延喜式」の神名帳には当国の神社として大社26座・小社49座の75座を載せる。「和名抄」の田積は1万2,525町余,保安元年の摂津国租帳(九条家冊子本中右記裏文書/平遺補46)の田積は1万2,526町余。奈良期の人口は11万2,800と推計される(奈良朝民政経済の数的研究)。9世紀に入ると,ほかの諸国と同様に「摂津国飢」という現象が「日本後紀」延暦23年2月条・「日本紀略」弘仁元年3月条・「続日本後紀」承和7年5月条・「三代実録」元慶2年5月条などに散見され,班田農民の没落と律令制の危機の一端が知られる。荘園は8世紀中期から大和国の諸大寺による立荘が見られ,律令制の解体に伴って摂関家領・皇室領・官司領などの荘園所領が急速に増加した。天慶8年7月摂津国川辺郡から豊島郡・島下郡・島上郡へと西国街道を通過した志多良【しだら】神の上洛騒ぎは,田堵を中心とする農村の新たな姿と古代社会の終焉とを物語るものであった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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