高安郡

「三代実録」元慶3年10月22日条には,当郡を本拠とした常澄宿禰宗雄らの奏言として「先祖後漢光武皇帝・孝章皇帝之後也,裔孫高安公陽倍,天万豊日天皇御世,立高安郡」と見え,天万豊日(孝徳)天皇のとき,大宝令に基づく国郡制施行に先行する評制のもとで成立したと考えられる。その評名の由来は漢の県名高安による。なお,天平3年7月5日のものと伝えられる(延暦年間頃とする説もある)住吉大社司解に「高安国」が見える(住吉大社神代記・平遺補1)。郡名の初見は天平15年正月の造寺所公文で「河内国高安郡玉祖郷」とある(寧遺中)。また「続日本紀」宝亀11年5月16日条には,当郡の人大初位下寺浄麻呂に高尾忌寸を賜わっている。「延喜式」神名帳には当郡の神社として,恩智神社2座・天照大神高座神社2座・都夫久美神社・玉祖神社・御祖神社・鴨神社・佐麻多度神社・春日戸社坐御子神社の10座,「和名抄」には当郡の郷として,坂本・三宅・掃守・玉祖の4郷を載せる。天智天皇2年白村江の戦いで百済救援の倭軍が唐・新羅の水軍に敗れたのち,その進攻に備えて同6年11月高安城が築かれ(日本書紀),大宝元年8月28日に廃止された(続日本紀)。その遺構については,昭和53年倉庫跡と思われる礎石群が奈良県生駒郡平群町の山中において発見されたが,調査の結果,廃城後の8世紀前半のものとされている。「伊勢物語」23段に「かうちの国,高安の郡に,いきかよふ所出できにけり」とある。「山槐記」応保元年9月17日条(大成)に見える恩智荘は,古くは御厨子所支配下の大江御厨に属していたことがわかるが,その後は所見がなく,平安末期までに消滅した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7384248 |