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天王寺(中世)


 南北朝期から見える地名。摂津国東成【ひがしなり】郡のうち。天王寺としての初見は平安期の「三代実録」貞観5年7月27日条で,以降,平安・鎌倉期を通して各種の史料に数多く見えているが,すべて四天王寺を指しており,地名としての所見はない。南北朝期になるとしばしば四天王寺は陣所となり,同寺の周辺は戦場と化した。これは,当地が摂津から河内南部や和泉に向かう要衝の地であることによるもので,この頃から天王寺は寺名あるいは四天王寺を中心とした地域を指す地名として使われるようになった。「太平記」には,元弘2年楠木正成軍と隅田・高橋ら六波羅勢の戦いにおいて,同年5月21日に楠木軍を追った六波羅勢が東からと西門の石鳥居からの挟撃にあい,このため上洛した関東方の一隊が翌年正月天王寺・住吉に陣を張ったのち河内に赴いたことが記されている。これをはじめとして南北朝動乱期には建武5年3月,北畠顕家と高師直の戦った天王寺・阿部野合戦,貞和3年8月の楠木正行と細川顕氏との戦いなどが知られる(太平記・園太暦)。応仁の乱では「安位寺殿自記」文明4年4月26日条(北国荘園史料)に「大内者共責入天王寺事……於堂舎不焼云々」と戦場になっている。引き続いた畠山合戦では「雑事記」文明9年10月9日条に「自天王寺令乗船没落了」と見え,若江城陥落により遊佐長直が当地から船に乗り,落ちていったことが記されている。さらに「蔭涼軒日録」明応2年3月2日条の陣取次第には「天王寺,堺南庄赤松殿,平野は武衛」とあるが,これは細川政元が畠山政長を河内に攻めた時のものである。その後の戦いでは享禄4年閏5月13日より6月4日まで続いた細川高国と細川晴元との戦い,元亀元年の三好三人衆と織田信長との戦いからはじまり,天正7年まで続いた本願寺合戦が著名。高国・晴元戦では「細川両家記」(群書20)などに,当地に陣取った高国に対して堺に本陣をしいた晴元の先兵三好元長らは住吉から北上して攻め懸り,決定的に敗北した高国は尼崎にのがれたのち自殺したとある。また織田信長と三好三人衆との元亀元年の戦いでは同書に「同七日に信長天王寺より中島天満森へ陣替候也」とあり,天王寺から南中島天満に移り,野田福島の三人衆を攻撃したが,本願寺に背後から挟撃されて一時京都に撤退したことがわかる。しかし,信長方は天正2年4月12日には「信長人数南方へ下,八尾ニ陣取,住吉・天王寺ノ在所方々焼申候」と「異本年代記」にあるように(大阪編年史2),本願寺方の南方拠点を焼打ちにしている。さらに「言継卿記」天正4年5月7日条(纂集)に「於天王寺前合戦有之,大坂衆千人斗首取之」とあり,信長軍が天王寺を占拠したことがわかる。また,念誓寺文書天正5年6月27日付の下間頼廉書状(和歌山市史4)に「仍敵此表へ可及行候て諸人数天王寺着陣候」とあり養蓮寺文書同8月28日付の下間頼廉書状(同前)にも,「殊ニ堀久太良二・三日前より罷下,天王寺在城」と見え,当地に城郭を構えたことが知られる。天王寺を確保することは大坂城を包囲し,南方よりの支援を断つうえで不可欠な要件であった。中世期における当地は四天王寺の祭礼・行事を支える職人・商人・伶人らが寺辺に居住して,門前町を形成していた。工人の早いものでは長徳2年3月3日付の北方中尾氏次第(紀伊中尾氏所蔵文書/阿波国徴古雑抄)に,阿波中尾石山大明神の復興を記して「正暦二卯月十六日 巳剋槌参 小工天王寺家久〈五十四歳〉」と見える。次いで勝尾寺再建記録(勝尾寺文書/箕面市史史料編1)に文治3年3月8日「自天王寺檜皮大工十一人登」と見え,勝尾寺毎年出来大小事等目録(同前)の寛元3年の塔婆葺かえに天王寺の檜皮大工が見える。下って永正17年5月16日の年紀をもつ河内志紀郡南条郷の志疑神社石塔に「四天王寺石之大工 奥坊□祐」の銘もあり(大阪金石志),建築関係の職人がいて,各地に出向いていることがわかる。その他の職人関係では「師守記」康永4年3月25日条(纂集)に,「今日修善加布施 天王寺草履十足」と見え,「満済准后日記」永享5年11月6日条(続群2)には「主上(後花園)渡御倚廬【いろ】殿 御簾廿荷并口三寸竹卅本自天王寺執進天王寺蘆廿荷来自野田村進了」とあり,藁細工や蘆簾の職人がいたことがわかる。当地には筵座があり,天王寺浜市がにぎわっていたといわれる。また永正15年4月12日付の包継旦那売券(米良文書/熊野那智大社文書3)に「天王寺五村,同あおそ衆」と見える。あおそは青苧でこれから繊維をとるのであるが,当地の青苧座は三条西家を本所と仰ぎ,戦国期には越後からの買付独占権を得て,京都の青苧座にも売却していたと考えられている。なおこの売券によると,天王寺周辺の5か村や天王寺青苧座の人々は熊野詣に出かけ,旦那として寄進したりしていたことが知られる。また油商人もおり,正和4年10月9日付の摂津国守護沙弥道覚請文(離宮八幡宮文書/島本町史史料編)に「天王寺領木村住人七郎男并得願法師等,号津料押取荏胡麻由,神人触訴」とある。天王寺領木村住人七郎男および得願法師らが関務に関係しており,津料として大山崎油神人から原料の荏胡麻を押取っていることがわかる。次いで応永4年5月26日付の室町幕府管領署判下知状(同前)に「摂州……天王寺 木村……散在土民,恣令売買荏胡麻云々」と見え,大山崎油神人が彼らの油器破却を訴えていることが知られる。したがって,先の荏胡麻押取りは自らの油精製にあてたものと考えられる。その後,応永21年8月9日付の室町将軍家御教書には関料として天王寺木村の住人による荏胡麻押取り,文安3年3月20日付の飯尾常暹奉書には東成郡内木村土民の「立置油木,致新儀」を訴える記事などが見える(同前)。なお「雑事記」文明15年11月26日条に「〈天王寺也〉河内木守(村)油売年貢無沙汰状」と見え,天王寺東側木村の土民は興福寺に油年貢を納めていたことがわかる。こうした天王寺辺の商工人は町を形成し,元亀3年8月の四天王寺文書に見える天王寺地下中掟(大日料10-12)には「盗賊海賊等為地下せいこ(警固)せしめ可令成敗事」とあり,町中の検断を彼等で分担しており,町衆として自治活動をしていたことが知られる。当地の伶人については「日本後紀」延暦23年10月4日条に和泉に赴くため難波行宮に滞在した桓武天皇に「四天王寺奏楽,国司奉献」と見えるのが早い。次いで「中右記」元永元年3月3日条(大成)に,「採桑老〈天王寺楽人公定舞之 佐忠去之後此舞絶了〉」と見え,平等院において宇治一切経会が催され5人の天王寺楽人も舞ったが,藤原宗忠はとりわけ公定の舞にいたく感じ入ったと記している。優れた技能をもつ彼らの行動範囲は広く,勝尾寺毎年出来大小事等目録(勝尾寺文書/箕面市史史料編1)中に,宝治2年3月23日の勝尾寺般若会の際の舞師として天王寺六郎八郎の名が見える。「斑鳩嘉元記」貞和2年4月25日条(大日料6-10)には「大和放光寺一切経供養 童舞……天王寺児也」と,次いで「嘉元記」の同10月28日条(同前)にやはり天王寺稚児が法隆寺竜田西口地蔵堂供養に出演している。また「満済准后日記」永享2年11月3日条に「大嘗会舞事……仍天王寺伶人任例可参勤」とあり宮中にも出仕したことが知られる。さらに文明3年8月22日付の太秦広喜舞曲伝授状(厳島文書/広島県古代中世資料編2)には天王寺楽人の広喜が野坂安種に伝授したことが記されている。また天文22年の某神主覚書案(宇佐到津文書/大分県史料)に,8月5日のこととして「天王寺ヨリ楽人参宮」,8月16日のこととして「天王寺楽人舟中ニテ楽奏候也」などとあり,戦国期には厳島神社や宇佐神宮にまででかけていることが知られる。なお,現在天王寺西門西南には伶人町がある。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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