100辞書・辞典一括検索

JLogos

41

長滝荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。和泉国日根郡のうち。東北院領。天福2年6月25日の官宣旨に「長滝庄」とあるのが初見(九条家文書/図書寮叢刊)。この官宣旨により九条家領日根荘が成立しているが,日根荘の荘域に含まれる当荘分は除かれており,当荘の成立はこれより早いことがわかる。嘉禎2年11月15日の長滝荘下司并公文職譲状によれば,左衛門尉中原盛実は「東北院御領和泉国長滝御庄弥富下司〈一庄半□(分)〉并公文職〈一庄〉」を嫡子沙弥浄願(日根野盛直)に譲っている(日根文書/泉佐野市史)。以後両職は,正嘉3年浄願から子息僧明心へ,文永4年僧明心から女房五条局へ,弘安7年五条局から明心息女四条局(尼如性)へ,正中2年尼如性から養子日根野盛治へ,貞和2年盛治から二郎法師丸(時盛)へ,さらには文和3年に時盛から菊夜叉丸(国盛か)へと伝えられている(同前)。しかし正和5年11月には中原氏女(四条局か)代如蓮と藤原致雅代康胤の間で相論があり,九条家は「弥富方下司并公文職」を没収し,久米田寺に寄進したこともあった(久米田寺文書/岸和田市史史料編1)。一方,当荘を二分する包富名の下司職・惣公文職は浄願の弟慈蓮(日根野盛氏)が所有していたと思われ,その子盛経は文永3・9年に日根荘井原村・入山田村の預所職に補任されており,日根荘内にも勢力を伸ばしつつあった(日根文書/泉佐野市史)。また日根荘の開発領主といわれる源氏は当荘内の禅興寺を管領していた。嘉元3年4月頃の成立という摂籙渡荘目録には「一,東北院領……和泉国〈資冬,後宮御方御分,致有知行之〉長滝庄 免田六十町 年貢八丈絹廿疋」とあり,年貢として八丈絹20疋を納めていたことがわかる(九条家文書/図書寮叢刊)。延慶2年九条家は日根荘の惣検注を実施し,翌3年2月から数通の荒野の注文が注進されている。そのうち日根野村沙汰人及び御使春次・末正の注進状には「長滝庄相論并禅興寺林等分」として10町8反半,法橋頼賢の注進状には19町9反大が記されているが,正和5年に作成された日根野村絵図では「長滝押領田」と見える(同前)。その後南北朝期には,まず建武3年5月19日に和泉守護畠山国清は恩賞として「和泉国長滝庄於一円仁」を日根野盛治に預け置いており(日根文書/泉佐野市史),同年10月7日には紀州粉河寺に「和泉国長滝庄領家職」を恩賞として預けている(粉河寺文書/同前)。さらに同4年8月27日本所近衛基嗣は日根野盛治に「当庄惣公文并包富弥富両下司職」を安堵し,年貢・寺役を沙汰するよう命じている(日根文書/同前)。なお建武5年7月16日の日根野盛治軍忠状には,南朝方が「熊取・佐野并長滝」を攻め,盛治が追い払ったことが記されている(同前)。また暦応5年正月日の摂籙渡荘目録では,包富名は六条院が知行し,弥富方下司并惣公文職は日根野道悟が領知していたことが記されている(九条家文書/図書寮叢刊)。下って明徳3年10月日の高野山金剛峰寺寺領注文写には「長滝庄内弥富名下司公文職〈不知行〉」と記されている(高野山興山寺文書/和歌山市史4)。また康正二年造内裏段銭并国役引付には「万寿寺領〈泉州長滝庄段銭〉」と見える(群書28)。その後当荘は興福寺領になっており,「雑事記」長享元年5月11日条には「和泉国宮里郷・春木・長滝三ケ所」の年貢が思うように徴収されないことが記されている。「旅引付」文亀元年9月8日条によると根来衆が当荘の守護使の政所屋を焼き払っており,当荘は和泉守護方の拠点となっていたことが知られる。同じく9月24日条では,前日日根野村領家方に来襲した守護方の日根野氏らはこの日「佐野・長滝」へ退却している。同2年9月1日条には前日の洪水で土丸・菖蒲の樋が当荘まで流され,入山田・日根野の村民および上郷・長滝の農民も加わって樋を引きあげていることが記されている。なお,天正3年7月15日の年紀を有する長滝共同墓地石灯には「長滝西方堂施主教日」と記されている(大阪金石志)。また「粉河寺旧記控」には「泉州日根郡長滝庄 右同断〈建武三年尊氏将軍家より御教書有之〉」と見える(和歌山市史4)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7384962