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土生郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。和泉国南郡のうち。埴生とも書き,「土生度」とも称した。宝治2年12月5日の関東下知状に,「木嶋郷内埴生村壱町陸拾歩」とあり,当村内に1町60歩の久米田寺免田があったことがわかる(久米田寺文書/岸和田市史6)。また,同時期と推定される久米多寺免田注文にも「一,土生村 一町六十歩」と見える(同前)。建長元年6月26日の木嶋郷土生度田数注文案によると,当郷の田数は32町1反300歩で,除田として前述の久米田寺免田1町60歩のほかに神於寺免田2反,加守寺免田2反小などが含まれていた(同前)。正和元年9月9日には,久米田寺領の免田相論があったため,六波羅探題は和泉国衙の惣官に,前述の建長元年の注文作成に関する文書提出を命じている(同前)。正中2年2月12日の平盛泰寄進状には「和泉国土生郷」と初めて郷名で見え,平盛泰が当郷内の田地1町余を久米田寺に寄進している(同前)。また暦応元年10月9日には,細川顕氏が高野山高祖院に「和泉国土生郷地頭職三分一」を祈祷料として寄進している(高祖院文書/大日料6-5)。興国3年2月28日,土生義綱・盛実は「和泉国木嶋郷内土生度久米田寺免田」を寺領として去り渡し,南朝方の和泉守護代大塚惟正は,この去状を久米田寺に送った(久米田寺文書/岸和田市史6)。年月日未詳の和泉土生度地頭由来書(同前)によれば,土生氏は当郷の開発本主で,地頭職は元弘年間の千早城籠城の恩賞によるものという。下って,室町期の明徳3年10月日の土生度久米田寺免田坪付注文には当郷内の久米田寺免田が記されているが,それは土生里・小湿里・上鏡里の3か里のうちに1町1反60歩存在している(同前)。その後文安3年5月3日には,土生重永が「和泉国木嶋郷土生度同里八坪」のうちの田地2反を直米7石で僧鑁阿に売り(同前),寛正2年10月13日には兵衛三郎中司が「和泉国木嶋郷土生度滝村」の田1反を直銭3貫300文で僧順誉に売却している(同前)。また,文明5年11月15日には「土生度〈一反東作□下,一反土生里五坪〉」のうち2反を比丘勢秀が,同13年4月8日に「土生度〈上鏡里廿三坪〉」のもう1反を土生南衛門が,それぞれ久米田寺へ寄進している(同前)。また,同14年12月2日には,円識房勢春が先師花厳院勢秀大徳から譲られた「木嶋郷土生度小路里十九」内の田地2反を売却しており,延徳3年2月7日には,土生直盛が「木嶋郷土生度内小路里」内の田地2反60歩を,永正15年4月11日には土生南衛門太郎が「木嶋郷土生度土生里五坪」内の忌日田240歩を,それぞれ久米田寺に寄進している(同前)。ところで,明応9年8月6日の土生重長跡安堵状によると,土生重長跡の所領が日根野又五郎に安堵され(同前),天文12年10月7日には細川勝元の部将松浦守が,土生一族衆の所領を日根野又次郎に預けており(日根文書/岸和田市史6),土生氏が没落したことが知られる。土生氏系図によると土生氏は弘治年間和泉を去り安芸へ移ったという。なお「旅引付」文亀3年5月18日条には「土生城」が見え,永正元年9月9日条には根来衆が「土生城」などに放火,9月15日畠山尚順が紀伊より出張,遊佐氏が土生城に到着している。この土生城は土生氏の居城で,天正9年に破却されたという(土生氏系図)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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