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平野荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。もと摂津国百済【くだら】郡に属したが,天長年中より住吉郡に属す(府誌5)。「吾妻鏡」建久元年4月19日条に「摂津国 平野 安垣 下知景時処 返事如此 相副之」と見え,鎌倉初期には梶原景時の管掌下にあったことがわかる。その後嘉元2年7月30日の沙弥正願畠地売券(大徳寺文書11/大日古)に「在摂(津脱カ)国住吉郡平野御庄之内〈字フト嶋ノ戌亥角〉」とあり,当荘内の布藤島の1反120歩の畠地が直銭3貫500文で僧春宗御房に売却されている。この売券は,応永5年12月2日に菅恒尚より大徳寺如意庵に売却された際の手継証文の1通で,端裏書に「フトウシマノケム クソサカ」とあり,徳治2年2月5日の藤二郎畠地売券(同前)に「合壱段者 在摂津国住吉郡平等院御領杭全御庄内 字クソサカ十条七里拾弐坪内」と見えることから,藤二郎(春宗)が後に1反120歩のうちの1反を覚祐に売却した畠地に関わる証文である。その後正平10年12月19日にまに女から行宗に,建徳元年2月5日に元暁へ,そして応永5年12月2日に如意庵へと売却されたことが大徳寺文書中に見える(同前)。これら売券のうち,最初の嘉元2年7月30日の沙弥正願畠地売券だけに平野荘とあり,他の4通はすべて平等院領杭全荘と見える(同前)。また応永元年12月19日の田嶋藤行杭全庄田所職等寄進状(同前)に田嶋藤行より大徳寺塔頭の如意庵に杭全荘の田所職名である末吉名等が寄進されたが,応永9年8月の末吉名田数注文(同前)では「如意庵領摂州住吉郡平野庄内末吉名田数〈領家代官井口方〉出之」と見え,大徳寺では平野荘と呼んでいる。以上のことは平野の北方に所在した杭全荘を在地では平野荘とも別称し,大徳寺側はこれを採用したものと考えられる。なお布藤島は平野川が合流する他の河川との間に形成された島と思われ,建徳元年2月5日の重快・妙阿連署畠田売券(同前)では「於本役者庄例油役也」とあり,応永5年12月2日の菅恒尚畠地売券(同前)では「但公事物者,胡麻六舛,米三舛,花銭十一文,此外万雑公事無之」となっている。これは布藤島が河川内の新開畠であった当初は油役としての胡麻の納入だけが本役であったが,その後耕地の安定化に伴い僅少の米および花銭が賦課されたことがわかる。また中世末期には当荘内に平野町が形成された。その要因としては摂津と河内・大和を結ぶ渋川古道上の要衝であったこと,当地に融通念仏宗の大本山大念仏寺(現平野区平野上町)があり,在地に坂上氏の末流と称する末吉氏など有力な氏族のいたことがあげられる。時期が前後するが,「日本年報」天正11年12月8日の報告書には「堺の彼方約1レグワ半又は2レグワの所に城の如く竹を以て囲ひたる美しき村あり,名を平野といふ。……此処に大に富める人々居住せしが」と見える(大日料11-5)。この富裕な町に注目して浄土真宗教団が進出したらしく,「証如日記」天文5年6月15日条に「光永寺門徒平野衆弐百斗」とあり,当地の浄土真宗徒は普請料を進納しており,翌6年6月11日には証如が当地に赴いている(石山日記)。また永禄11年10月2日,織田信長が堺南北荘に矢銭2万貫を賦課した時,これに抵抗しようとした堺の会合衆は当荘の年寄衆に「其元於御同心者,双方示合出向領堺可防之候,為御相談如此候」と伝えて共同防衛計画を策している(末吉文書/織田信長文書の研究上)。その後当荘は信長の直轄領になったらしく元亀元年10月日の信長朱印状(同前)には「料所 平野庄中」と見え,10月4日の徳政令から除外する旨を伝えている。これより先同年9月2日には信長の代官蜂屋頼隆が当荘にあて,詰夫2人を除くほか当荘の市津料ならびに陣夫役を免除しており(東末吉文書/豊田武:中世日本商業史の研究),信長が同町の商業保護に努めている。しかし,同時に統制も行われ,信長は天正4年4月5日に当荘から大坂石山本願寺への兵粮米搬入を禁じ,同5月9日には天王寺に城を構築するに当たって,蜂屋頼隆を派遣して用材調達を当荘に命じている(末吉文書/織田信長文書の研究下)。また当荘の醸造業は盛んで平野酒と呼ばれたが,天正11年11月15日に羽柴秀吉は「平野庄惣中」に請米を安堵し,代わりに切代を納入させている(同前/大日料11‐5)。しかし,兼見卿記(纂集)天正11年9月1日条には「至平野見物,当在所悉天王寺へ引寄也,竹木堀以下埋之也,自今日大坂普請之由申了」と見え,秀吉の大坂城築城による城下町整備のため,当地の富商たちは天王寺に移転を命ぜられ,環濠も埋められて次第に衰退に向かった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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