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本町(近世〜近代)


江戸期~現在の町名江戸期は大坂三郷南組のうちはじめ1~5丁目,明治5年1~4丁目,昭和5年からは1~5丁目がある1丁目は「本町ばし西詰より西へ」の町で(宝暦町鑑),元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によると家数31軒,役数37,うち無役数2(年寄・会所),年寄は福島屋正章2丁目は「八百や町筋より西へ」の町で(同前),元禄13年の同帳によれば家数41軒,役数49,うち無役数3(総年寄・丁年寄・会所),年寄は布屋九右衛門3丁目は「なにハばし筋より西へ」の町で(同前),元禄13年の同帳によれば家数31軒,役数33,うち無役数3(総年寄・丁年寄・会所),年寄は升屋太郎右衛門4丁目は「せんだんの木橋すじより西へ」の町で(同前),元禄13年の同帳によれば家数35軒,役数44,うち無役数2(年寄・会所),年寄は三木屋九郎兵衛5丁目は「心斎ばしすじより狐セうじまて」の町で(同前),元禄13年の同帳によれば家数31軒,役数40,うち無役数4(年寄・会所・総会所・総代九右衛門),年寄は坂上善信5丁目には浄土真宗西本願寺掛所津村別院があるこれは北御堂とも呼ばれ,慶長2年12世准如が石山の旧跡に擬して建てた津村坊舎を基にする江戸期数度にわたって拡張ないし改築され,明治に至った寛永14年北御堂東南に浄土真宗本派浄照坊(昭和初期に天王寺区に移転),享保11年浄照坊向かいに同宗同派浄久寺が建立された江戸期以来当町は繊維・衣料関係商業の中心地2丁目から4丁目には古手屋が軒を並べ,また歳市も有名であった北御堂前には木偶店が多く,「御堂前の人形の店」と呼ばれていた当町1丁目東横堀川岸の地は,この地点で東横堀が東へ曲がっていることから「東横堀まがりの地」「小松島」と呼ばれた染物屋・手拭染屋が多かったが,明治以降は歓楽地となった当町には絹張小路(安土町と本町の間の東西道),鰻小路(本町1丁目と南本町1丁目の間の東西道),狐小路(御堂筋と渡辺筋の間の南北筋)があるなお大坂の蘭学先駆者麻田剛立は4丁目で医院を開いていた明治2年大阪東大組,同12年東区,同22年からは大阪市東区の町名明治期以降も当町は近江商人を中心とした繊維産業の町として栄えた津村別院は明治初期に大阪府会議事堂・大阪病院教授局となったこともあるが,第2次大戦で焼失,戦後再建された相愛学院は,明治21年津村別院の一部を校舎として開校東区役所は現在1丁目にあるが,これは同34年高麗橋1丁目より移転し,昭和10年新築されたもの同5年北渡辺町の一部を編入し,5丁目が成立世帯数・人口は,大正9年326・3,024,昭和30年163・1,032,同50年58・144




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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