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播磨国


「旧事本紀」によると,当国はもと針間国・針間鴨国・明石国の3か国に分かれており,それぞれ国造が置かれていた。姫路市御国野町国分寺の壇徳山,加西市玉丘町の玉丘,神戸市西区五色山の五色塚などの前方後円墳は,これら国造の墳墓と考えられる。「日本書紀」の天武天皇2年12月5日条・持統天皇5年11月30日条によれば,天武・持統の2代にわたって,天皇即位式儀礼の大嘗祭に当国の郡司らが供奉しており,その功を賞された。当国が山陽道東端の国として重要視されていたためだと考えられている。律令制実施当時の当国の郡制は明らかではないが,「風土記」は,赤石・賀古・印南・飾磨・揖保・讃容・宍禾・神前・託賀・賀毛・美嚢の11郡をあげるが,同書には赤穂郡の記述がなく,巻首の明石郡の条を欠いている。「延喜式」は,当国を山陽道の第1国,大国とし,明石・賀古・印南・飾磨・揖保・赤穂・佐用・宍粟・神埼・多可・賀茂・美嚢の12郡をあげている。「和名抄」では,本田2万1,414町3反36歩,正公各44万束,本穎122万束,雑穎34万束。各郡を統轄する国衙は飾磨郡にあった。国の国分僧寺跡は姫路市御国野町国分寺,牛堂山国分寺と称する真言宗寺院のある地である。古代山陽道に北面している。国分尼寺跡は,この北約700mの国分寺字毘沙門堂の廃寺を推定地としており,近くには尼寺ケ池という溜池もある。この附近は政治文化の中心と考えられ,国衙もこの近辺に所在していたと思われる。国衙を経て大宰府へ至る古代山陽道は,海岸からやや離れた位置を西進しており,明石・賀古・草上・大市・布施・高田・野磨の7駅が置かれて,賀古駅は駅馬40匹を数える日本最大の駅であった。「延喜式」神名帳に見える式内社は,大社7・小社43の計50座。白鳳期の寺院は市川や加古川などの上・中流域に多いが,奈良期になると河川の下流域に集中する。国分寺周辺にはこの時期の廃寺が密集している。「風土記」には鉄に関する記述が多く,佐用郡・宍粟郡・神崎郡・多可郡・美嚢郡は鉄の一大産地であった。「延喜式」に木工寮鍛冶戸16烟・兵庫寮雑工戸4烟とあるので,当国に朝廷の技術者がおり,古代播磨の製鉄は朝廷の管理下にあったものと考えられている。赤穂郡などには,東大寺・西大寺の塩山があり(東大寺要録・西大寺資財流記帳),当国は古代における製塩の先進地域であった。また,正倉院の文書に播磨の国名を冠した紙の名がしばしば見えるように,紙は当国の特産品で,「延喜式」にも紙が貢納品としてあがっている。椙原(庄)紙が全国的に有名。昌泰4年閏6月25日付の太政官符には,播磨国の百姓の大半は六衛府の舎人であると記している(類聚三代格)。地方豪族が成長し,広大な山野を占拠して土地所有の拡大に努めており,中央官庁の小役人の地位を得て,国司の賦課する調庸・租税をまぬがれようとする動きが顕著であった。また,延喜元年12月21日付の太政官符によれば,当国に所領をもつ院宮王臣家が現地に使者を派遣して年貢を取り立てて,国衙の支配をないがしろにしている(同前)。加古川と揖保川の流域には早くから法隆寺の寺領があったが,この頃貴族・社寺の荘園が増加した。法隆寺・藤原氏・賀茂神社・住吉大社・石清水八幡宮・東寺・東大寺などの荘園が広大な地域を占めている。平安末期には平氏の支配下に入り,多くの荘園の領家職・預所職が平氏やその家人の所領となっている。源平合戦で国内は戦場と化したが,源義経が勝利を得て,平氏の勢力は当国から追い落とされた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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