福原荘(中世)

鎌倉期~戦国期に見える荘園名。八部郡のうち。平家一門が滅亡した時,没官領として源頼朝に帰した平家領荘園の1つに福原荘があった。「吾妻鏡」建久3年2月14日条に「是平家没官領内,摂津国福原庄……已上廿ケ所,先日被奉譲黄門室家也云々」とあり,頼朝は当荘を一条能保に嫁していた妹に譲与した。建久3年妻の死後,能保はその所領を子女に分与したが,当荘は能保息女から同人の嫁した九条家に伝えられ,九条良経の子道家から一条家を創始した実経に伝領されて一条家領となったと推量される。南北朝期には「摂津国福原庄内正元・清友両名」が春日社神供・興福寺律学料所として寄進されている(御挙状等執筆引付延文5年11月2日付興福寺別当御教書/大日料6‐23)。室町期には地頭代官は摂津守護赤松氏の一族であったが,永享4年には赤松阿波入道が領家の進止すべき検断・人夫役を押領したとして一条兼良に訴えられ(御前落居記録/室町幕府引付史料集成上),文安5年には「摂津国兵庫〈福原庄上庄已下三ケ庄云々〉」内の赤松治部少輔知行地が幕府の没収するところとなり,次いで翌6年4月にはこの知行分のうち「福原庄内西方散在田地」などが将軍足利義政から石清水八幡宮に寄進された(康富記文安5年8月16日条,石清水文書6/大日古)。もとより,一条家の領家職は維持されており,「桃花蘂葉」にも家領として「摂津国福原庄〈領家職也〉」と載せられ,はじめ赤松氏を年貢請負代官として年貢450貫文を収納したが,次第に減少したため,文明年間当時は守護細川氏被官香川氏を代官に任じていたという(群書27)。応仁の乱の時,当荘に下向していた一条政房が大内・赤松軍の乱入で横死するという事件の後(大乗院寺社雑事記文明元年10月21日条),文明2年4月一条兼良は興福寺学侶の申請に応じて「摂津国武庫郡福原庄領家職并検断人足」を春日社・興福寺造営料所とした(文明2年4月15日付寄進状/春日神社文書1,大乗院寺社雑事記同年4月16日条)。興福寺ではさきから領有していた兵庫南関と併せて積極的な経営に努めたが,乱の余波で支配の実は上らなかった(蜷川家文書2摂津国寺社本所領并奉公方知行等注文/大日古)。文明15年,代官香川が年貢を抑留すると,直ちに寺家は守護細川氏と談判,翌年正月には香川を改易して松殿中将を現地に下向せしめ,年貢徴収に当たらせている。なお,文明16年収納帳では同年の収納額は島中地子入船諸公事231貫余・御米代59貫余で,兵庫南関と一括経営されていたことが窺われる(大乗院寺社雑事記文明16年正月2日・同18年7月1日条)。しかし,戦国期にも守護代薬師寺氏の押領を蒙るなど,次第に維持困難におちいった(宣胤卿記永正4年7月3日条)。当荘は隣荘と相論をしばしば起こしており,鎌倉期の建仁2年に輪田荘荘官から同荘浜を押領して津料を徴収し,湊川第三井手を抑留して分水を止めたとして訴えられたのをはじめ(九条家文書/鎌遺1290),室町期にも文明16年に山道荘,同19年に兵庫中荘と合戦に及んだという(大乗院寺社雑事記文明16年2月20日・同19年4月19日条)。荘民には長田社馬上頭役が課された(長田神社文書)。近世の「五畿内志」によれば,兵庫津・荒田・平野・石井・夢野・烏原・今和田新田・神戸・走水・二茶屋・生田宮・中宮・花熊・北野・宇治野・坂本などの諸村を当荘としている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7395880 |