宇野荘(中世)

平安末期から見える荘園名。宇智郡のうち。①宇野荘。醍醐寺三宝院領。金峰山領。保元3年8月7日付官宣旨案(栄山寺文書/五條市史下)に「応同停止宇智郡宇野今井三宅散在寺領私主事」とある。栄山寺の主張によれば当地には養老年間から散在寺領田があり,不輸租を認められていたが,この頃には私領主の台頭によって寺領は退転していたという。この私領主はおそらく源頼親を祖とする大和源氏一族で,すでに11世紀後半,頼親曽孫の中務丞源頼治が当地を相伝所領としていたという(元久元年6月17日付後鳥羽院庁下文案/春日大社文書1)。この所領は頼治から嫡男親広に譲られ,次いで親広から嫡子親治に譲与された。「本朝世紀」久安2年4月25日条に「以故頼俊朝臣(頼治父)外孫(源師任),伝領大和国宇智郡田畠,本寄与興福寺云々,而称本寺課役繁多由,忽寄与金峰山,両寺合戦」とあり,郡内の頼俊遺領の一部が金峰山領となったことが知られるが,当地も親広の代にすでに金峰山に寄進され,その荘園となっていたらしい(大東家文書10月11日付宇野親満愁状/春日大社文書6)。「金峰山古今筌蹄記」には「仁平中,以大和国宇野荘,被寄附小倉荘流損代」ともある。ところが,親広・親治父子の仲が不和となったため,親広は所領を悔返し,改めて次男基重・三男親満・女子伊与内侍高倉院女房(春日局)に分与した。この頃金峰山は当荘の検注を企て,また春日局は同寺に当荘年貢20石を弁済していたらしい(同前,元久元年6月17日付後鳥羽上皇院庁下文案・7月13日付同院宣案/春日大社文書1)。保元3年親治は父親広の処分を不服として朝廷に出訴,宣旨を得て知行を安堵されるとともに,所領を醍醐寺三宝院勝賢に寄進して本家と仰いだ。これに対し,基重・親満らは父の譲状を証拠として勝賢に訴え,相論となった。本家勝賢からの再三の照会に,親治は本家への年貢送進を止めて対抗した。その結果,本家勝賢は基重・親満らを当荘の「地頭」に任じたが,知行の実は親治に握られたままであった(元久元年6月17日付後鳥羽上皇院宣案/春日大社文書1)。親治の死後,跡を継いだ子息頼基は金峰山の威勢に頼って当荘を押領しようと企てたが,のちには三宝院勝賢に年貢送進を約するに至った。このため勝賢は基重・親満らを退けて,頼基に当荘の領掌を認めた。基重子息重治は当荘を恢復すべく,鎌倉幕府や近衛基通・九条良経ら代々の藤氏長者に訴えたが,勝賢の跡を襲った三宝院実賢は後鳥羽院庁に請願して,重治の訴訟を停止せしめた(同前)。元久元年6月院庁は「大和国宇野庄官等」に重治非論の停止を命じ,同年11月勧学院政所もこれを施行している(元久元年11月8日付勧学院政所下文案/同前)。鎌倉初期の承元2年沙弥栄成(頼基の法名か)は改めて当荘の年貢のうち段別1斗を金峰山の鳥羽院御願宝塔院理趣三昧料に寄進している(承元2年3月18日付栄成寄進状案/春日大社文書2)。頼治以下の大和源氏は当荘を本拠として宇野氏を称した。「尊卑分脈」「清和源氏系図」(続群5上)によれば頼治は宇野冠者といわれ,子息親弘は摂津郡豊島に住んだと伝えられるものの,その子息親治は宇野七郎を称している。親治は,また保元の乱の際藤原頼長の召しに応じて上洛,その途次,法性寺の一橋辺で平基盛と合戦に及び,生け捕られた。この時親治は「清和天皇十代の後胤,六孫王の末葉,摂津守頼光のおとこ,大和守頼親に五代,中務丞頼治が孫,下野守親弘が嫡子,大和国の住人,宇野七郎親治と申者なり」と名乗ったという(保元物語上・兵範記保元元年7月6日条)。次いで,治承4年源頼政の挙兵に親治の子息宇野太郎有治ら兄弟が加わったとも伝える(源平盛衰記)。頼治流の宇野氏は平安末~鎌倉中期に活躍したが,その後衰退したらしい。②宇野荘。大乗院門跡領(春日社新一切経料所)。建長5年5月24日付大乗院門跡尊信定文(三箇御願料所等指事/内閣大乗院文書)に「春日社新一切経検校職并宇野庄故円玄僧正所護与也」とある。鎌倉初期に東北院主円玄僧正から弟子大乗院門跡円実(九条道家息)に譲られ,次いで門跡尊信(九条教実息)が相伝して,同門跡領となった。醍醐寺三宝院領宇野荘と同一荘園であろうが,円玄の手に入った経緯は未詳。「三箇御願料所等指事」(内閣大乗院文書)に「宇野庄安堵関東御教書等 一通 宇野庄安堵御教書 弘安八年 一通 御巻数御返事 正応三五」「宇野庄札庫文書 一通 関東重御寄附御教書 文永元年 一々 同時六波羅状」と見え,門跡はしばしば鎌倉幕府から当荘の安堵をうけている。当荘地頭職が門跡に寄進されていたか,鎌倉前期に当荘は没官の処分をうけていたとみられる。正応年間にも当荘は幕府に没収されたが,のちに返付されている(祐春記正応5年4月16日条/続南行雑録)。「三箇院家抄」巻2には「宇野庄 七十二町三(段脱)百六十歩 同阿陁佐那手」と見える。室町期には春日社一切経料として年貢80貫文を進納する定めで,東北院主に給主職が恩給された(寺社雑事記長禄2年閏正月13日・寛正5年5月28日・文明3年12月6日条)。また寺門・門跡の段銭が賦課された(寛正6年の将軍御下向寺門段銭帳/成簣堂大乗院文書)。この時期には河内の畠山氏の勢力が宇智郡に及んでおり,寛正3年と思われる9月5日付畠山国信書状写(隅田家文書/和歌山県史中世史料1)では,国信から「宇智郡上田井左藤次跡〈宇野庄三分一〉」が紀伊の隅田孫左衛門尉に宛行われている。上田井は紀伊国人,畠山被官。門跡では地侍宇野氏を代官に任じて,年貢の確保に努めた。宇野氏は大乗院門跡坊人。平安・鎌倉期の宇野氏との系譜は不明。南北朝期には南朝方にあって,文和4年摂津神南【こうなん】に足利義詮の軍と戦い,延文4年には河内八尾城に拠って畠山国清と対峙したという(太平記巻32・34)。室町期には宇智郡内で二見氏らと並ぶ有力者であった。田地の作職(作主職,加地子得分権)を買い集めて経済的にも勢力を伸ばし,一乗院領二見荘のうちにも所領田があったという。寛正5年当荘内恒富(恒留)名の田地作職を近隣の地侍二見氏が買得したことから,同名を大乗院門跡から恩給されたと称する宇野有治との間で相論となっている(寺社雑事記寛正5年6月2日・同6年4月19日条)。応仁・文明の乱では畠山政長方(東軍)について河内に出陣,文明9年10月誉田城に籠城中,畠山義就に攻められて自害した(同前文明9年10月8日条)。戦国期には既に没落したらしい。荘域は現在の宇野町よりも広く,五條市西阿田町・東阿田町から大淀町佐名伝【さなて】まで及んだ。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7398287 |