大西(中世)

南北朝期から見える地名。城上郡のうち。①大西荘。興福寺十二大会料所・春日祭御厩舎人負所。天文5年12月日付十市郷諸荘進官米納帳(京大一乗院文書)に「大西庄 未進在之 沙汰人与七」,同15年8月日付十市郷諸荘進官米注文(同前)に「大西 六町三反七反切」とある。また同19年閏5月日付十市郷諸荘進官米会所目代分納帳(同前)には「大西庄 古帳十石 近年成五石此内去年一石六斗沙汰 江堤領入地分仁七斗無沙汰之由申也」と見え,興福寺会所目代が納所となって管掌し,春日若宮祭や興福寺十二大会の用途を負担した。天正年間の春日若宮祭礼并薪之神事料所注文(天理図書館所蔵文書)にも「大西庄……以上八ケ所下代竹料」と記す。なお「寺社雑事記」延徳4年2月19日条に「春日祭方ハ悉以大西領ニ負所共有之者也」とある。春日祭の際御馬居飼に「大西庄三石」,同舎人黒袴衆に「大西庄九石」が当地の住人大西ノ彦五郎・大西ノ弥十郎の取沙汰として支出された。また興福寺伎楽役を勤める舞人に当荘から春秋2度10石余の進官米が給与されたともいう(多聞院日記文明10年4月8日条)。②大西。「三箇院家抄」巻2所載の延文3年出雲荘段銭算用状に大乗院門跡領出雲荘13名として「大西名 一丁三反」「大西名 七反」とある。また「寺社雑事記」寛正3年9月10日条所引の同日付定使左近次郎注進状によれば出雲荘内点札分として「西下司方……一反〈万田〉大西 与門四郎……一反〈コロモタ〉大西 サコノ四郎,一反〈同ツホ〉同所 又四郎,一反〈同ツホ〉同所 道サイ」「三島給田……一反〈大西コロモ田〉……二反〈大西カツラタ七斗代〉」とあり,当地内に出雲荘田が所在し当地の百姓らが耕作したことが知られる。現在の桜井市大西の字に万田・衣田が残り,大泉に北葛良・南葛良がある。下って天正8年織田信長に提出された大乗院家御知行分帳(広大大乗院文書)に十市郷のうちとして「大西領」とあり,田地2町6段,分米3石4斗余が記されている。この大乗院門跡領は出雲荘田の後身にあたるらしい。当地は国民大西氏の本拠地。大西氏は大乗院門跡坊人。至徳元年の長川流鏑馬日記に「大西殿」と見え,春日若宮祭に流鏑馬頭役を勤仕する願主人の一員であった。散在党に属す(寺社雑事記文明12年5月27日条)。文明3~4年頃には大西氏は出雲荘両下司氏と境相論し,興福寺吉祥院領檜垣田を押領したため興福寺六方の発向を被るところであった(同前文明3年9月8日・4年8月16日・9月7日条など)。応仁・文明の乱前後から大和国人は畠山政長方の筒井・十市氏派と畠山義就方の越智・古市氏派の両派に分かれて対立・抗争したが,大西氏は越智方に属した。文明11年に十市氏が敗退すると間隙を縫って大西氏の勢力は拡充,闕所となった出雲荘下司職を手中に収めた。翌12年大西氏は多武峰【とうのみね】の稚児を抑留して多武峰衆徒らの発向を受け,越智方の戒重氏の城に逃げ籠っている(同前文明11年11月8日・同23日・12年10月21日・11月3日・13年2月26日・16年4月23日・18年11月22日条など)。明応2年越智家栄に供奉して上洛した(同前明応2年5月19日条)。永正4年9月宇陀郡の国衆沢・小川・檜牧氏らが初瀬に侵入,大西・柳本らはこれに抗するため戒重城に拠った。永禄11年には反松永久秀の十市衆が大西城に籠ったが,秋山衆らを先陣とする松永軍のため落城したという(多聞院日記永正4年9月16日・永禄11年11月9日条)。なお文明5年頃の出雲荘土帳(内閣文庫所蔵)には城上郡19条2里5坪の位置に「大西屋敷」の注記がある。この坪付は現在の桜井市大西の集落にあたり,大西氏の館はここに在ったらしい。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7398472 |