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忍海?(古代)


大和期から見える地名「オシノミ」「オシウミ」「オシノウミ」とも訓まれ,「飫斯(忍)」と別称された葛城川支流安位【あに】川流域に位置する忍海は忍海部に由来するという説,凡海部の略とする説,「押しつぶされたような地形」すなわち「崩崖」のことであるとする説などがある(古代地名語源辞典・日本地名伝承論)①忍海清寧天皇の没後,億計王と弘計王は互いに位を譲りあって即位しなかったので,姉の飯豊青皇女が「忍海角刺宮」で,臨朝秉政し,「忍海飯豊青尊」と自称した当世の詞人は「倭辺に見が欲しものは忍海(於尸農瀰)のこの高城なる角刺の宮」と歌ったという(顕宗即位前紀清寧5年正月是月条)清寧天皇3年にも飯豊皇女が角刺宮に居住したとある(清寧紀3年7月条)皇女は忍海部女王とも称した(顕宗即位前紀)一方,「古事記」清寧段には「天皇崩りましし後,天の下治らしめすべき王無かりき是に日継知らす王を問ふに,市辺忍歯別王の妹,忍海郎女,亦の名は飯豊王,葛城の忍海の高木の角刺宮に坐しましき」と見える角刺宮が所在した当地は,葛城国の一部であったことが知られるなお,「姓氏録」河内国皇別に「忍海部」が見え,彼らは忍海角刺宮に居住した飯豊青皇女(忍海部女王)の宮号を付した御名代とも考えられる忍海部の伴造氏族には忍海(部)造がいる(古事記開化段・清寧紀2年11月条・天智紀7年2月戊寅条・天武紀3年3月丙辰条など)その一部には天武天皇10年に連姓を,同12年にはすべての忍海造に連姓を賜っている(天武紀12年9月丁亥条)同氏のうち,忍海連宮立は大和国忍海郡の人である(和銅6年5月付木簡/平城宮出土木簡概報6)また皇極天皇6年,大臣蘇我蝦夷は自己の祖廟を葛城の高宮に立て,八佾の舞をした時の歌に,「大和の忍の広瀬を渡らむと足結手作り腰作らふも」とあり,忍海の別称として「忍」が見える「大和志」は現在の新庄町忍海に比定する②忍海邑神功朝に葛城襲津彦らが新羅へ遠征した際,連れ帰った捕虜は「書紀」編纂当時,「桑原・佐糜・高宮・忍海」の4邑に居住した漢人らの始祖であると伝えられる(神功紀5年3月己酉条)なお,坂上系図(続群7下)所引の「姓氏録」逸文に「忍海村主」は仁徳朝に渡来したとあるこれら渡来系の忍海漢人や忍海村主の配下に職業部民として忍海部があったとする説もあるそれは養老6年に近江国の忍海部乎太須が伊勢国の忍海漢人安得,播磨国の忍海漢人麻呂ら71戸の雑工とともに雑戸の号を除かれたとあることによる(続紀養老6年3月辛亥条)彼らは渡来系の鉄工技術者であったと考えられている(肥前国風土記三根郡漢部郷)さらに,「元興寺縁起」(山城醍醐寺所蔵/寧遺中)所収の元興寺塔露盤銘には崇峻朝の作金人として「意奴弥首辰星」の名が見えるもしそうならば,天武朝に連姓となった忍海造は雑工の品部たる忍海部の伴造であったことになる忍海連と同族の忍海原連が朝野宿禰を経て葛城朝臣に改氏姓し,葛城襲津彦の後裔を称するようになったのは,襲津彦が忍海漢人らを新羅から連れ帰ったとする伝承と関連する忍海造も実は渡来系の忍海漢人・忍海村主と同系の氏族であったと考えられる(天武紀10年4月庚戌条・続紀延暦10年正月己巳条・続後紀承和2年2月庚辰条・姓氏録左京皇別下葛城朝臣など)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7398619