軽(古代〜

平安期から見える地名。高市郡のうち。加留・賀留・苅とも書く。①軽荘。承保3年9月10日付高市郡司刀禰等解案(東大寺文書/平遺1134)に,越後権守高階業房が源頼房から相伝した所領田畠などの在所として「在大和国高市并十市東郷□字豊瀬飛鳥軽庄元興寺」とある。なお鎌倉期成立の「長谷寺霊験記」(続群27下)に「同(堀河)院御宇永長年中ニ大和国カルノ里ニ藤井安基ト云ケル男,心極テ邪見ニシテ因果ヲ知ラズ」とある。当地の者が長谷観音の霊験で堕地獄から救われた話を収載している。②軽荘。大乗院門跡領。「三箇院家抄」巻2に「軽庄 大乗院宿直米四斗云々〈近来無之,九月分〉高市郡 五名〈六名云々〉寺門反銭二丁四反大」とある。大乗院創建当初からの根本17か荘の1つで,特に大乗院宿直米・4月9日内山本願(第3代門主尋範)忌日の僧膳料などを負担した(三箇院家抄1,三箇院家指事/内閣大乗院文書)。荘田は本来6名からなり,各名には公事が均等に賦課された。応永10年2月27日付軽家郷注進状(三箇院家抄2)によれば,公方(門跡)への年貢・公事として,御米(年貢米)8石4斗余・佃米14石2斗・加地子段別1斗,炭・薪・青花・漬茄子・薦・日次御菜米・馬藁・歳末折敷・牛房・大角豆。給主への年貢・公事としては,佃米6石4斗余,炭小籠・青花・焼米・月御菜・五月粽・瓜・折敷・馬餉藁・歳末雑菓子などがあった。「三箇院家抄」巻1では,門跡への公事として京上人夫役・紫縁畳用途が掲げられている。このほか,寛正6年の将軍御下向寺門段銭帳(成簣堂大乗院文書)に「加留庄 二丁四反大 七丁七反門跡帳面」とあるなど,寺門・門跡から恒例・臨時の段銭などを賦課された。また当荘は大乗院門跡隠居方料所で,隠居した門跡に料足10貫文を負担した(寺院細々引付応永11年2月15日条/大日料7‐6,三箇院家抄1)。室町期には国民越智氏による年貢の代官請が行われ,のちには越智氏一族の国民賀留氏が年貢請負代官に任じられている(三箇院家抄2,経覚私要鈔寛正2年2月9日・5月17日条,寺社雑事記延徳3年10月10日・明応2年正月晦日・6年12月2日条など)。室町後期の越智郷段銭帳(春日大社文書4)には「加留庄 二町四段大」,天正5年の越智郷楢原郷未進納帳(成簣堂大乗院文書)に5月25日越智郷請乞分として「二斗 加留」とあって,当時国民越智氏の勢力下にあった。賀留氏は当地を本拠とする地侍。大乗院門跡坊人。庶流に加留新氏がある。至徳元年の長川流鏑馬日記に「賀留殿」と見え,春日若宮祭に流鏑馬頭役を勤仕する願主人の一員。散在党に属す(蓮成院記録延徳3年11月条など)。応永21年足利義持に上洛を命じられた国民のうちに「加留 同(越智庶子)」があった。軽荘の代官として,応永年間には軽家郷,長禄年間には軽家親が見える(経覚私要鈔長禄元年12月19日条・三箇院家抄2)。なお庶流の加留新氏は一乗院門跡坊人。門跡から南喜殿荘内長講堂領17石を恩給されている(応永27年一乗院方坊人用銭支配状/天理図書館所蔵文書)。当地には飴・煎米座があった。軽の煎米座は大乗院門跡に属し,座衆11人は当地のほか,高田・八木など各地に居住,長谷寺などで飴・煎米(米菓子)の販売をした。座衆は毎年3月20日に当地で寄合をもち,この時大乗院への年貢銭を軽荘の座衆がとりまとめて納入した。毎年1貫文であったが,永正年間には実質800文の納入で,越智郷内の座衆が500文,残りを十市郷内の座衆が負担したという(永正年中記/内閣大乗院文書)。天文年間には人別114文から諸経費を引いて,実質1貫文の納入に改められた(天文10年諸荘取納帳/成簣堂大乗院文書)。③軽国府。国府荘ともいう。加留国府とも書く。大乗院門跡寄所。嘉保2年正月10日付大江公仲処分状案(大江仲子解文/平遺1338)に「一,国府庄〈在大和国,本名池尻〉件庄分充男以実畢」とある。大江公仲の所領であったが,息男以実に処分された。室町期には「三箇院家抄」巻2の軽荘の項に「同軽国符一町二反〈寺反米四丁八反也〉」,寛正6年の将軍御下向寺門段銭帳(成簣堂大乗院文書)にも「加留国符一丁二反」と見え,寺門や大乗院門跡の段銭・段米などを賦課された。室町後期の越智郷段銭帳には「同(加留)国符 一町二段」と記す。現在橿原市西池尻町の小字軽古・軽古南付近に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7398998 |




