百済(中世)

室町期から見える地名。広瀬郡のうち。①百済。一乗院門跡領。貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に,広瀬郡の一乗院方荘園として「百済 七町七段大」,応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)には,同じく「百済 十一町三段大」とある。また,至徳3年6月9日付一乗院良昭維摩会講師段米催状(岡本文書)にも「百済庄十二丁一反小……以上広瀬郡」と,門跡段米が課せられている。②百済荘。多武峰領。永正18年の護国院神殿造営銭日記(談山神社文書)に,永正16年分の諸郷段銭納内として「廿貫文上 百済庄打増分納之,政所御坊御沙汰」,諸郷分奉加銭として「三貫文上 百済庄三ケ寺院僧進上」,上棟御祝馬進上分として「一貫文上 百済庄」と,神殿造営の用銭を賦課されている。戦国期の預所押領目録によれば,「百済庄 半分通り 近年津田押領」とある(同前)。この津田氏は箸尾氏の姻戚で,尾州出身の地侍という(広陵町史)。また永正年間には河内守護畠山尚順およびその被官遊佐筑前守の押領するところとなった(後慈眼院殿記永正7年8月6日条/大日料9-2)。天正8年織田信長が大和一国に指出検地を実施した際に作られた寺領注文案(談山神社文書)には「合九百八十五町九反八畝六歩田 合六千三百五十ケ所,畠屋敷同百済方田畠屋敷分」と見え,一旦は寺領と認められたが,信長の上使惟任(明智)光秀のため当荘は闕所とされたらしい(談山神社文書9月16日付政所英訓書状・11月25日付同書状/大和志料下)。室町期頃の百済荘内屋敷田畠差図(談山神社所蔵文書/日本荘園絵図集成上)によれば当荘域は十市郡西郷18条4里,広瀬郡18条1・2里,同19条1~3里,同20条1~3里,21条1~3里,高市22条3里,広瀬郡22条1・2里にわたる計273か坪,ほぼ南北27町・東西10町の方形をなす。これは現在の広陵町百済と大和高田市松塚・藤森・土庫【どんご】の一部にあたる。坪付のうち,209か坪は坪名注記を有し,百済寺・蓮光寺・法永寺・延動寺・唐楽寺などの寺敷地も見えている。文禄4年の太閤検地では「千七百三拾弐石四斗六升 同(和州広瀬郡之内)くたら」が多武峰に寄付された(舟橋兵治氏文書文禄4年9月21日付秀吉朱印状/桜井市史史料編上)。なお当地には地侍百済氏が居り,南北朝貞和年間に近隣の南郷氏と合戦に及んだことがあった(南行雑録貞和2年5月11日付興福寺六方起請文/大日料6-10)。なお「三箇院家抄」巻3には「常光院御八カ堂不断念仏田 二丁余 百済郷之内〈南郷知行〉」とあって,域内に菩提山正暦寺常光院領田もあった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7399304 |