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神殿荘(古代〜


 平安期から見える荘園名。添上郡のうち。①神殿荘。寛弘9年4月の大僧正雅慶書状(東大寺文書/平遺補158)に「号神殿庄同所侍也,年久成了」とあり,東大寺別当であった僧雅慶が今木社(菟足社)神主らから寄付された所領に神殿荘があったという。所在地は未詳であるが,現在の奈良市古市町付近であろう。②神殿荘。大乗院門跡領。「三箇院家抄」巻2に「神殿庄〈十名〉田畠三十三丁九十歩」とある。大乗院建立以来の根本17か荘の1つで,4月9日の大乗院第3代門主尋範忌日の僧膳料所に充てられた(三箇院家抄1)。田数は43町余とも(延徳3年神殿荘散田帳/成簣堂大乗院文書),34町8段ともあり(康正2年神殿荘散田帳/内閣大乗院文書),弘安2年には30町9段10歩であったという(同前)。総田数のうち年貢米を賦課される名田は8町6段。元来は1町規模の均等な名【みよう】10名から編成されていたらしいが,1町の5名,9段の3名,8段の1名,4段の半名,計9名半となっていた。年貢米のうち55石2斗は門跡御後見方雑務職,9石5斗は門跡上北面の給分に充当。給田など間田としては大佃2町・小佃1町・大乗院三昧供田2町・上番三人給田1町2段・沙汰人二人給田1町・塗師作手給田1町・檜物師給田1町・経師給田1町・中司給田3段・定使給田1段,ほかに門跡に仕える力者給計7段半・御童子給1町などがあった。大佃の所当6石は門跡坊官の給分に充当(三箇院家抄1・2)。また,散在間田として成身院6段・為定仕丁2段・蓮生院3段・後五大院2段・西発志院2段・東金堂釈迦講5段・大安寺1段・明星院1段半がある。門跡への公事には12月7日巡湯頭(風呂役)・高麗縁畳用途銭・毎月8日御菜用途銭・大乗院宿直米などがあり,歳末には名主9人が薪1荷ずつ上納,2月の常楽会には荘民2人が桟敷守を勤める定めであった。このほか寺門・門跡から恒例・臨時に段銭・段米・用銭・用米などが賦課された。嘉暦元年11月日付季頭料段銭支配状(雑々日記)に「神殿庄定田三十三丁九十歩」,享徳2年の大乗院御領段銭引付(内閣大乗院文書)には「神殿庄〈給主成就院〉三十三丁九十歩 六貫六百文上之」などと記す。荘田は添上郡左京8条5・6坊の全ての坪および7条5坊4坪,9条5坊1・2・7~10・15・16坪にわたって分布し(延徳3年神殿荘散田帳/成簣堂大乗院文書),現在の奈良市神殿町にあたる。荘域の東限は「福田院ノ西ノ大道」,南限は「長井ノ谷」,西限は「下津道鴨坂」,北限は「古川」とされている。北は奈良領,南は長井領に接しており,奈良貝塚【かいなづか】郷・京終【きようばて】郷などの住人や長井荘住人が当荘百姓として出作した。このため奈良段銭などの賦課が行われて紛争となったこともある(寺社雑事記長禄2年正月16日・同4月9日・寛正3年9月9日・同11月2日条など,康正2年神殿荘散田帳/内閣大乗院文書)。荘田の灌漑用水は近隣の三橋(仏聖)・四十八町・越田尻・畑森新・京南などの諸荘同様に能登・岩井川の井堰から引いており,毎年4~8月に興福寺公文所に提出する申文の順に引水する慣行であったが,当荘と三橋荘は水主荘園とも称して優先的に引水する特権があった(経覚私要鈔応永24年7月17日条,寺社雑事記能登岩井両川用水相論条々など)。天正8年織田信長の大和一国指出検地の際の大乗院家御知行分帳(広大大乗院文書)では筒井郷のうちに「神殿庄」として田数3町1段余・分米10石余と記す。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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