佐紀(古代)

大和期から見える地名。①佐紀。垂仁天皇皇后日葉酢媛命・成務天皇・神功皇后の陵墓伝承地。まず大后比婆須比売の時,石祝作と土師部を定め,この后は「狭木の寺間の陵」に葬られたとある(古事紀垂仁段)。日葉酢媛命墓は現在の奈良市山陵町字御陵前にある前方後円墳に比定されている。次に成務天皇は「倭国の狭城盾列陵」に葬られ(仲哀即位前紀),御陵は「沙紀の多他那美」に所在すると伝承される(古事記成務段)。「延喜式」諸陵寮には,「狭城盾列池後陵」として「志賀高穴穂宮御宇成務天皇。在大和国添下郡。兆域東西一町。南北三町。守戸五烟」とある。康平6年盗人が「池後山陵」に入り宝物を掠奪したが,しばらくして興福寺僧静範および縁座者16人が流罪となった(扶桑略記康平6年5月13日条・同9月26日条・同10月17日条)。成務陵は現在の奈良市山陵町にある俗称石塚と称する前方後円墳に比定される。さらに神功皇后は「狭城の楯列の陵」(古事記仲哀段分注)・「狭城盾列陵」(神功紀69年10月壬申条)に葬られたとある。「延喜式」諸陵寮には「狭城盾列池上陵」として「磐余稚桜宮御宇神功皇后。在大和国添下郡。兆域東西二町。南北二町。守戸五烟」と見える。神功陵は現在の奈良市山陵町字宮ノ谷にある前方後円墳に比定されている。また「万葉集」巻1に「長皇子,志貴皇子と佐紀宮に倶に宴する歌」として「秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿鳴かむ山そ高野原の上」(84)と詠まれる。長皇子の居住した佐紀宮の所在地は不明だが,高野原は称徳天皇高野陵のある奈良市山陵町付近に比定できる。なお「万葉集」に見える「咲沢」(675)・「生沢」(1346)・「開沢」(3052)を「佐紀沢」,「開沼」(2818)を「佐紀沼」,「咲野」(1905・2107)を「佐紀野」とする説もあるが,上代特殊仮名遣いに合わない。「延喜式」神名上の添下郡10座のうちに「佐紀神社」が見え,現在の奈良市佐紀町字亀畑に比定される(大和志)。佐紀は現在の奈良市北部,佐紀町・歌姫町・山陵町周辺に比定される。②佐紀池。垂仁紀35年10月条に「倭の狭城池及び迹見池を作る」と見える。神亀4年「楯波池」から吹いた風により南苑の樹2株が吹き折られ,雉に化したとある池と同所か(続紀神亀4年5月辛卯条)。「大和志」は常福寺村に比定し,広さ1,200余畝,一名西池・水上池と称するとある。③佐紀山。「万葉集」巻10の旋頭歌に「佐紀山に 咲ける桜の 花の見ゆべく」(1887)と詠まれる。現在の奈良市北部,奈良山の一部で佐保山の西方に連なる。④佐紀村。「霊異記」下巻第15話に,犬養宿禰真老は諾楽京の活目陵北方の「佐岐の村」に居住すると見え,真老が沙弥の乞食を撃って悪死の報を得る説話がある。活目の陵とは垂仁天皇陵で平城右京4条3坊(現奈良市尼辻町小字西池)に位置する。佐紀村はその北方とあり,現在の奈良市佐紀町付近に比定される。⑤佐紀郷。「和名抄」添下郡四郷の1つ。高山寺本・東急本ともに訓を欠く。宝亀元年高野(称徳)天皇を「大和国添下郡佐貴郷高野山陵」に埋葬したとある(続紀宝亀元年8月丙午条)。「京北条里班田図」(東京大学文学部所蔵/荘園絵図聚影)によると,1条1里1坪は佐紀郷坂本辺知得の田と記されている。また佐紀郷戸主佐紀勝阿古麻呂は,4条1里9~12・16・21坪と4条6里1坪に計1町163歩の口分田と,1段110歩の乗田を所有する。4条2里にも佐紀郷住人の墾田が存在し,10坪の2段は山部布美麻呂が男秋人に伝領,15坪の1段300歩は岡白秋田が所有,25坪の1段80歩は丸部国足が同戸の丸部白麻呂へ売却,36坪の2段は丸部石村が所有している。ちなみに同図の4条は宝亀3年の校定田で,同条1里は現在の菖蒲池付近である。⑥佐貴路。宝亀11年12月25日西大寺資財流記帳(内閣文庫蔵本/寧遺中)によると,同寺の所在地について「居地参拾壱町,在右京一条三四坊,東限佐貴路〈除東北角喪儀寮〉,南限一条南路,西限京極路〈除山陵八町〉,北限京極路」と見える。平城京西二坊大路の呼称。現在の奈良市西大寺町から大和郡山市北郡山町へ南下する路。⑦佐紀道里。添下郡のうちで「京北条里班田図」に見える1条3里の呼称。前道里ともいう。現在の奈良市山陵町付近。同図によると当里は岡と山のみで耕田は見えない。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7399735 |