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添下郡


飛鳥期から見える郡名。大宝令の郡制施行により成立。大化前代からの添県が7世紀後半の評制段階を経て,大宝令の郡制施行により「添上」と「添下」の2郡に分割されたと考えられる。郡名の初見は,天武紀5年4月辛丑条に「倭国の添下郡の鰐積吉事,瑞鶏を貢れり。其の冠,海石榴の華の似し」とあるものだが,この場合の郡名は「書紀」編者が添(所布)評を潤色したと考えられる。郡名の確実な初見は「続紀」和銅元年9月乙酉条で,元明天皇が春日離宮へ行幸した時,「大倭国添上下二郡」の今年の調を免じるとある。和銅7年,当郡の人大倭忌寸果安は非常な親孝行者で,兄弟仲がよく,また人にも恵み深かったので,登美・箭田2郷の百姓が皆恩義に感じ,親のごとく慕ったという(続紀和銅7年11月戊子条)。天平16年に卒した律師道慈法師の卒伝に,俗姓は額田氏で,当郡人と見える。道慈は天平元年,大安寺を奈良に遷造するにあたり,勅によりそのことを勾当した。工は巧妙にして,構作形製もみな彼より出て,匠手らはみな感嘆したという(続紀天平16年10月辛卯条・懐風藻)。天平19年の法隆寺資財帳(寧遺中)によると,法隆寺所有の山林岳島26地のうちに「添下郡菅原郷深川栗林一地」とあり,東は道,南は百姓家と習宜池,西北は百姓田が四至とされ,処々庄46所のうちにも「添下郡一処」とある。なお,天平年間には添下郡・平群郡などは4月に種子をまき,7月に収穫するが,葛上・葛下・内などの郡は5~6月に種子をまき,8~9月に収穫する慣行であった(令集解仮寧令在京諸司給休仮条古記)。天平神護元年,当郡人左大舎人大初位下県主石前に添県主の姓を賜った(続紀天平神護元年2月甲子条)。県主の姓は,この一族がかつて層富(添)県の県主であったことに由来する。宝亀元年,高野(称徳)天皇は「大和国添下郡佐貴郷高野山陵」に埋葬された(続紀宝亀元年8月丙午条)。なお,「延喜式」諸陵寮には「高野陵」として「平城宮御宇天皇。在大和国添下郡。兆域東西五町。南北三町。守戸五烟」とあり,現在の奈良市山陵町に比定される。当郡にはこのほかにも垂仁天皇の菅原伏見東陵,成務天皇の狭城盾列池後陵,神功皇后の狭城盾列池上陵,安康天皇の菅原伏見西陵,平城天皇皇后で藤原百川の娘帯子の河上陵,平城・嵯峨両天皇の外祖母で藤原良継夫人安倍命婦の村国墓が存在した(延喜式諸陵寮)。宝亀11年の西大寺資財帳(内閣文庫本/寧遺中)によると,西大寺所有の田薗山野図73巻のうちに「一巻 添下郡瑜伽山寺〈白紙〉一巻 同郡阿弥陀山寺〈白紙〉一巻 同郡秋篠山寺〈白紙〉」と見える。天平年間と推定される従人勘籍(正倉院文書/大日古編年24)に「大養徳国添下郡村国郷郡里大倭連弓張戸房立野連安麻呂〈年卌八〉」とある。なお,平城宮跡出土の木簡に「⊐養宿禰国足〈□(年カ)五十八 大和国添下郡□(人カ)〉」という墨書がある(平城宮木簡4解説No3720)。当郡の条里は,平城京右京北方の京北条里と南方の京南条里に分かれる。京北条里は条が東より西へ4条が延び,里は南より北へ最大6里が展開する。ただし,同条里は現地形上の遺存地割が不明確であったり,ゆがみを有したりするので,地図上のみの呼称法である擬制条里とも考えられる。とくに,1条1・2里は楯烈里,1条3里は佐紀道里・前道里,2条1里は竪上里,2条2里は丸部里,2条3里は上丸部里,3条4里は桑原里,2条5里・3条5里は秋篠里,3条2里は栗本里,3条3里は瓦屋里,3条4里・4条4里・同5里は忍熊里,3条6里は坂本里,4条1里は池上里,4条2里は蟹川里,4条3里は菅生里,4条6里は遊師里と称された(京北条里班田図/荘園絵図聚影)。京南条里は平城京右京九条大路と下ツ道を基準とし,条は北から南へ8条が延び,里は東から西へ最大7里が展開する。ちなみに,平城京右京九条大路以南3町を1条とするため,添上郡京路東条里とは1条1坪の喰い違いがある(条里復原図・大和郡山市史)。とくに,2条1里は村国里,3条1里は栗田里と称された(林康員文書大同元年12月10日大和国添下郡司解/平遺29)。平安期に入り,大同元年には右京3条1坊戸主上毛野朝臣奥継戸口同姓弟魚子は京南2条1里(村国里)と3条1里(栗田里)に所有する墾田5段60歩を銭12貫文で右京9条1坊戸主陽候忌寸弟永戸口同姓広城に売却している。当郡大領として大和連志貴麻呂,擬少領として刑部国堅,擬主帳として矢田造の名が見え,郡印が紙面に押されている(同前)。弘仁2年,大和国添下郡白田1町を従五位下三国真人氏人に賜った(後紀弘仁2年11月壬子条)。貞観6年,添上・添下両郡に対し,平城旧京の都城道路が田畝に変じているので内蔵寮田160町やその他私墾開の田を収公し,租を納めさせた(三代実録貞観6年11月康寅条)。元慶3年,左京6条1坊戸主宗岳朝臣利行は添下郡矢田郷の京南5条1里34坪に所有する墾田1段を貞観銭1貫200文で右京8条3坊戸主上毛野公下野に売却した。擬大領三尾公乙吉・副擬大領染部連魚主・郡老大石林・擬主帳薦造・副擬主帳良の名が見え,郡印が押されている(市島謙吉氏所蔵文書元慶3年5月27日大和国矢田郷長解/平遺173)。「延喜式」神名上には「添下郡十座〈大四座小六座〉」と見え,「ソフノシモ」の傍訓が付される。同書民部上には大和国15郡の1つに「添下」郡があり,同様の傍訓が見える。「和名抄」には「添下郡」として村国・佐紀・矢田・鳥貝の4郷を載せる。平安末期に興福寺が大和国衙に代わって大和一国支配権を確立すると,当郡は興福寺の管領下に入った。中世には域内の寺社は興福寺・春日社の末寺・末社化して大半は興福寺・春日社領の荘園となったが,この過程で鎌倉期頃から鳥見・矢田をはじめ,薬師寺散郷を中心とする西京,秋篠寺・西大寺を中心とする秋篠郷など現在まで継承される郡内の諸地域が形成されている。郡内には衆徒鷹山(高山)・鳥見福西・秋篠・宝来・矢田・山田・小泉・丹後庄・筒井らの諸氏や国民山陵・超昇寺・郡山らの諸氏が簇生し,興福寺はこれら衆徒・国民を組織化する一方で,郡単位に郡使を派遣して寺門段米・段銭などの賦課を行った。しかし,室町期頃には筒井氏が独自の勢力範囲である筒井郷を築いたために郡域は秋篠郷など一部を除いて筒井郷に編入されたものとみられ,郡の行政単位としての実質は戦国末期に至るまでほとんど失われた。当郡域は筒井氏の本拠ともいえるが,文明末年頃は衆徒古市氏の勢力が侵入したし,明応年間~永正年間には古市氏と結ぶ管領細川政元の部将赤沢朝経らに蹂躙され,また永禄年間には松永久秀のために戦火をこうむった。天正5年松永久秀を破って,大和守護となった筒井順慶は郡山城を本城として修築したが,同8年織田信長の一国破城令によって郡山以外の大和の城郭は破却されたため,郡山城を擁する当郡は名実ともに大和の中心となったといえよう。同13年郡山城に羽柴(豊臣)秀長が入っている。文禄検地では郡山町を除く添下郡の村数50・石高3万5,000石余。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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