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田原(古代)


 奈良期から見える地名。添上郡のうち。「続紀」神護景雲元年12月9日条に「従五位上阿倍朝臣三県を田原鋳銭長官と為す」とあるのが初見。同3年3月戊寅条にも「田原鋳銭長官」の語が見え,田原に奈良期鋳銭のための施設があったことが知られる。また「延喜式」諸陵寮によれば,「田原東陵」として「平城宮御宇天宗高紹天皇。在大和国添上郡。兆域東西八町。南北九町。守戸五烟」とあり,「田原西陵」として「春日宮御宇天皇。在大和国添上郡。兆域東西九町。南北九町。守戸五烟」とある。田原東陵は光仁天皇陵とされ,現在の奈良市日笠町の字王之墓に比定され(山陵考),「後田原山陵」ともいわれた。田原西陵は施基親王陵で,現在の奈良市矢田原町に比定される。施基皇子は天智天皇の子で,白壁王(光仁天皇)の父(続紀光仁即位前紀)。白壁王の即位により「田原天皇」と追称される(続紀光仁即位前紀・同宝亀3年7月戊子条,後紀延暦24年11月丁丑条・同大同元年4月丁巳条など)。なお「三代格」には後人の書き込みと思われる「施基皇子。天智天皇第三之皇子。白壁天皇即位之後追称御春日宮天皇。霊亀二年。山陵在大和国添上郡田原村」という分注がある(宝亀3年5月8日勅/三代格17)。延暦12年山階(天智)・後田原(光仁)とともに「先田原」山陵へ,平安遷都の由を告げさせた(紀略延暦12年3月癸卯条)。天安2年には光仁天皇陵とともに「春日宮御宇天皇田原山陵」に「年終荷前之幣」を献ずることになったが(三代実録天安2年12月9日条),元慶8年に国忌より除かれ(三代実録元慶8年6月19日条),同年12月には荷前幣からも除かれた(三代実録元慶8年12月20日条)。一方光仁天皇は,天応元年に没し(続紀天応元年12月丁未条),翌延暦元年に広岡山陵に葬られたが(続紀延暦元年正月庚申条),同5年には「田原陵」へ改葬された(続紀延暦5年10月甲申条)。この間延暦4年には天智天皇・聖武天皇の山陵とともに「田原山陵」へも早良皇太子を廃する状を告げさせている(続紀延暦4年10月庚午条)。延暦24年「山科・後田原・崇道天皇三陵」に唐国物が献じられ(後紀延暦24年7月甲午条),承和3年には遣唐使のために「山階・田原・柏原・神功皇后」などの陵へ幣帛が献じられている(続後紀承和3年5月庚申条)。儀式書などにも両田原陵に対する奉幣についての規定が散見する(政事要略29・江家次第11・西宮記6)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7400693