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都介(古代)


 大和期から見える地名。闘鶏・都家・竹谿・竹渓・竹鶏・都祁とも書く。①闘鶏国。大化前代山辺郡の東部高原地帯は闘鶏国と称され,都祁氏が当地に居住した。その領域は現在の都祁村域を中心として東は伊賀国境,西は現在の天理市福住付近という。神武天皇の皇子神八井耳の子孫が闘鶏国造に任じられ,都祁直を姓としたと伝承される(古事記神武段)。また仁徳朝に都介氷室が設定されたとする起源説話も見える(仁徳紀62年是歳条)。すなわち「闘鶏」の地に額田大中彦が猟をしに出かけると,野に異様なものを見つけたので,「闘鶏稲置大山主」を喚んで尋ねたところ,その野の中の窟は氷室であることを知り,さらにどの様なものか尋ねたところ「土を掘ること丈余。草を以て其の上に蓋ふく。敦【あつ】く茅荻【ちすすき】を敷きて,氷を取りて其の上に置く。既に夏月【なつ】を経るに消えず。其の用ふこと,即ち熱き月に当りて,水酒に漬【ひた】して用ふ」と答えた。そこで氷を天皇(仁徳)へ献じさせたところ喜んだので,闘鶏稲置はそれより季冬ごとに必ずその氷室の氷を宮中に納めるようになったという。おそらく仁徳朝までさかのぼる史実ではないが,少なくとも「書紀」編纂の頃までには都介氷室が既に存在し,連綿と平安中期まで存在していたとみられる。「延喜式」主水司には氷室の1つとして「大和国山辺郡都介一所。六丁輸一駄」と見え,4月から9月の間毎日一定量ずつ氷室の天然氷を徭丁に運ばせて宮廷に供給すると規定される。また承平元年には「右衛門擬府掌禁野専当従七位下宇治部」と並んで「散位供御都介氷所勾当従六位上氷部」の連署がある(内閣文庫所蔵文書承和元年月日安部乙町子解/平遺238)。これは「都介野」が天長・承和期から禁野とされたことと関連し(三代実録元慶6年12月21日条),氷室のある都介の地が内廷の直轄領的性格を有していたことが知られる。さらに康和3年には「大和国都介御室六合」と定められているが,「就中大和国都介御室。昔毎年厚封。而今如彼預解状者。僅一合所採納也者」とあるように,以前ほど天然氷が厚く張らなくなり,わずか一合しか採納できなくなっていた(康和3年正月15日・21日主水司解文/朝野群載8別奏)。主水領大和国都介氷室は福住にあったとされ(康富記嘉吉3年12月23日条),現天理市福住町には闘鶏稲置大山主命・仁徳天皇・大中彦皇子の3柱を祀る氷室神社があり,都介氷室の遺跡と考えられている。なお平城京跡から出土した主水司関係の木簡に「都祁進」の文字が見える(平城宮木簡3解説No2877)。また和銅5年2月1日の年紀を有する長屋王家木簡に「都祁氷室」,さらに「都祁氷進始日」,「□(自カ)都家来帳内」などと墨書したものがある(平城宮出土木簡概報No21)。闘鶏国造都祁氏の姓は古くは直だが仁徳朝には稲置と見える。これはむかし「闘鶏国造」に無礼があったので,皇后忍坂大中姫がそれをとがめて姓を貶して稲置としたためである(允恭紀2年2月己酉条)。直は国造に多く,稲置は県主に多い姓であり,直より稲置の方が大和政権に対して従属度の強い姓と考えられる。国造都祁直が支配した闘鶏国は氷室の献上や改姓の強要など,大和政権の圧力に屈して縮小され,やがて西に接する山辺県主の支配した山辺県の領域と合わされて律令制下の山辺郡が成立したと考えられる。ちなみに都祁氏の墳墓としては現都祁村南之庄の中期古墳である三陵墓西古墳や三陵墓東古墳などがその候補とされている。また雄略朝には宮廷の桜閣建築を作る技術者として「木工闘鶏御田」の名が見える(雄略紀12年10月壬午条)。②都介郷。「和名抄」山辺郡六郷の1つ。高山寺本・東急本ともに訓みを欠く。神亀6年2月9日小治田安万侶墓誌銘(現都祁村甲岡【こおか】字西畑出土)に「大倭国山辺郡都家郷里崗安墓」と刻まれる。霊亀元年「大倭国都祁山之道」を開くとあり(続紀霊亀元年6月庚申条),天平12年には聖武天皇が伊勢へ行幸する途中に「山辺郡竹谿村堀越頓宮」に立ち寄ったことが見える(同前天平12年10月壬午条)。式内社「都祁水分神社」は「竹谿水分」とも記され(延喜式四時祭上),平安期には斎王は伊勢の斎宮を出てから4日目に「大和都介頓宮」へ就くことになっていた(江家次第12斎王帰京次第)。竹谿村に所在した堀越頓宮とは都介頓宮と同じ施設を示すと考えられる。都祁山之道の開通と都祁(堀越)頓宮とによって,奈良期初頭から伊勢・伊賀方面へ出るための要地になっていたのである。平安中期になると当郷から隣国の伊賀国名張郡にまたがる山間部に広大な東大寺領板蠅杣が成立した。康保元年勘解由長官藤原朝成が薦生牧・広瀬牧などを譲得し,名張・山辺両郡司に所領の立券を求めた。山辺郡司は「山辺郡都介郷刀禰等」に立券を命じたが,薦生牧は東大寺側が板蠅杣内であると主張していたため刀禰らは立券を留保している(東大寺文書康保元年9月25日都介郷刀禰案/平遺279)。「都介郷刀禰」とは六人部広吉・前検非違使物部某・田所判官代物部某・内竪高田総らで,郷内の有力者・下役人であった。彼らは朝成の家人清忠王と協力して板蠅杣・広瀬牧の四至を検分し,両者が別であることを証言するなど在地の事情に通じた者であった(同前康保元年9月25日板蠅杣四至紕繆記/同前280)。「延喜式」神名上には名神大社として都祁山口神社・都祁水分神社が見える。都祁山口社は大和国に14所ある山口神の1つで都祁の山霊を祀る。天平2年の大倭国正税帳(正倉院文書/寧遺上)山辺郡条に「都祁神戸」の租稲146束1把のうち4束を祭神料に用いたとあり,「新抄格勅符抄」大同元年牒には「都祁山口神一戸大和」とある。「都祁神戸」も山口神の神戸であったと推定される。同社の神主職小山戸氏は国造都祁直の末裔と伝えられる(大和志料上)。都祁水分社は大和水分4神の1つ。「延喜式」祈年祭祝詞に「水分に坐す皇神の前に曰さく,吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は曰して」と見える。なお「懐風藻」には道慈作として「五言。初春竹渓寺に在り,長王が宅にして宴するに,追いて辞を致す。一首。并せて序」が見え,道慈が隠遁していた「竹渓山寺」も当地に所在した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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