鞆田荘(中世)

鎌倉期から見える荘園名。山辺郡都介郷のうち。大乗院門跡寄所。興福寺喜多院二階堂領山内七か所の1つ。興福寺食堂瑜伽論供料所。菩提山正願院御塔釈迦念仏衆供料所。寛喜2年4月28日付正願院仏事用途所当注進状(興福寺文書/鎌遺3983)に「十口供料用途米事……鞆田庄 三石六斗」とある。貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に山辺郡の大乗院方荘園として「鞆田庄 十三町四反大」,応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)にも同地積で記載がある。「三箇院家抄」巻2によれば「鞆田庄〈山内七ケ所内,二階堂方〉十四丁四反」とある。田積は15町3段ともいう(都祁水分神社縁起/大和志料上)。当荘は平安期には喜多院二階堂の一円所領であったが,鎌倉初期院主円綱已講が二階堂院主職を大乗院第4代門主信円に寄進すると,当荘も大乗院の管領するところとなった。しかし円綱已講は下地を諸人に売却しており,二階堂には公事・夫役ばかりで,年貢が全くない状態であったため,信円は荘内の「方々之地主領主」から段別米の寄進を募って二階堂仏餉灯明供料とし(同前),当荘は二階堂の負所となった。負所米は9石5斗1升であったが,室町期には「無沙汰」になっている(三箇院家抄2)。瑜伽論料所には荘内の田1町6段があてられた。これは円綱已講が売却した当荘下司田に由来し(都祁水分神社縁起/大和志料上),その所当16石を供衆16人に配分した(三箇院家抄2・寺社雑事記応仁元年4月13日条)。大乗院門跡は知足坊を納所に任じて瑜伽論料米の収納に当たらせたが,室町期には当荘の料田は実際には,鞆田氏一族が給主を勤める越田尻荘の給田に振り替えられていた(同前)。このほか「三箇院家抄」巻1・2によれば,二階堂負所米の3分の1は応永13年以来,大乗院坊人国民三谷氏に宛行われ,当荘定使田1段は力者徳市給分となっている。また大乗院方に公事として荘民が直接負担するものには,菩提山正暦寺御塔釈迦念仏衆供料3石6斗(興福寺文書寛喜2年4月28日付正願院仏事用途所当注進状/鎌遺3983)や毎年正月6日の七草若菜・牛玉・餅(寺社雑事記文明4年1月6日条),9月の都祁水分神社祭礼(鞆田祭)の餅(同前寛正3年9月27日・文明9年9月28日条)などがあり,また臨時に門跡修理造営用の材木を伐出すことがあった(同前文明13年10月2日条)。当荘水分山の樹は当地に鎮座する都祁水分神社の神木と称され,大乗院の要用のほかには用いず,明応4年には長谷寺再建のため勧進僧が門跡を通じて材木を要請したが,水分社氏人らによって拒否されている(同前明応4年12月5日・同9日条)。水分社の造営には当荘に段銭が賦課され,材木・垂木竹を出し,祭礼には田楽・相撲を勤仕した(都祁水分神社縁起/大和志料上)。当荘の給主は衆徒鞆田氏,庶族に越田尻荘給主であった鞆田室氏があり(三箇院家抄1・内閣大乗院文書),大乗院門跡坊人としてしばしば南部に参洛・出陣の命をうけた(寺社雑事記康正3年2月28日・4月28日・文明7年3月23日条)。また毎年5~6月に大乗院宿直役を勤めた(同前長禄4年6月1日条,御兵士引付/内閣大乗院文書)。都祁水分神社縁起(大和志料上)の所伝によれば,鞆田氏は本姓栄部氏で,天禄2年以来都祁水分神社神主職・当荘下司職を相伝した。菩提山信円の頃は栄部春元という者が当主であったが,円綱已講が下司田を他家に売与したため,下司職は有名無実となった。さらに正安年間春元を継いだ春恒の代に,都祁水分神社神主職も近隣の地侍水涌式部に奪取されたが,のちに還補されたという。鞆田氏は神主得分として荘内に神田8段・講田5か所,小山戸荘内に地子1石4斗などを認められていた(三箇院家抄2)。南北朝期には南朝方の地侍白石氏の支配下にあり,鞆田氏も伊勢国司北畠氏に属して南朝方であったものと思われる。応仁・文明の乱では,鞆田・鞆田室氏は古市衆として参戦した(寺社雑事記文明7年5月15日条)。乱後筒井・十市氏方と越智・古市氏方の対立は東山内にも波及し,文明12年には鞆田氏は筒井方の小山戸氏と合戦(同前文明12年9月28日・10月1日条),翌年7月小山戸氏が没落・逐電すると,以後数年にわたって鞆田氏は小山戸荘を知行した(同前文明15年1月11日・16年1月13日・17年1月20日条)。文明17年暮には筒井方が東山内に侵入,当地は筒井方の陣所となった(同前文明18年1月13日条)。越智方も応戦したが,やがて撤退したので,鞆田も自然雌伏を余儀なくされた。当時近隣の地侍吐山氏一族は,越智方の惣領吐山藤満と筒井方の援助をうける庶家吐山峰氏らが内紛していたが,鞆田氏も藤満に与力して活動している(同前延徳3年7月20日条・蓮城院記録延徳3年7月条)。鞆田氏は多田氏らとともに来迎寺(現都祁【つげ】村来迎寺)の檀越であり(来迎寺記文亀2年11月3日付来迎寺掟/大和志料上),明応3年には鞆田泰五郎宗重が父重快の菩提を弔うため,「友田領字小北前」の水田180歩を来迎寺に寄進している(同前明応3年6月7日付寄進状/同前)。なお宗重の父武蔵公鞆田重快は大乗院に出仕した興福寺僧であった(寺社雑事記延徳3年1月29日・延徳4年5月8日条)。鞆田氏の拠った鞆田城は現在の都祁村友田集落中央部の字シロの台地辺縁部に方形単郭の遺構を残す(日本城郭大系10)。文禄4年検地帳(友田区有文書/都祁村史)によれば34町6反余,石高430石8斗余。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7401000 |