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野田村(近世)


 江戸期~明治9年の村名。添上郡のうち。奈良町外辺の村で,いわゆる奈良回り八か村の1つ。時には奈良町の1町として扱われて野田町と称することもあり,その場合には寛永11年~宝永7年は半田方庄屋支配,以後は北方触口支配に属する。文禄検地では21町3反余,高280石余(東大寺図書館蔵)。慶長8年9月26日に,151石余が東大寺領,6石余が興福寺,14石余が野田禰宜屋敷(春日社禰宜),19石余が高畠禰宜屋敷(春日社禰宜),4石余が高畠坊主衆(御廊雑司2人),2石余が給人辻子将監屋敷となり,残りの81石余が幕府領となる(「大乗院文書」の解題的研究と目録)。「寛文郷帳」では幕府領81石余,東大寺領151石余,興福寺法雲院屋敷6石余,野田町中禰宜屋敷14石余,高畠町中禰宜屋敷19石余,御廊承仕屋敷4石余,楽人并法雲院屋敷(楽人衆并東大寺正法院屋敷とも記す)2石余とある。「元禄郷帳」(大和志料本)には,幕府領のほかに,東大寺領151石余,興福寺領6石余,禰宜屋敷19石余,廊承仕4石余,禰宜屋敷14石余,伶人2石余,幸徳井屋敷6斗余,禰宜屋敷9石余,西庄作之進2斗余,法雲院1石余,三島宗入3斗余,奈良町屋敷3石余と見える。このように当村内には各種の除地が設けられていたが,大きくは幕府領と東大寺領に分かれていたと考えてよく,「旧高旧領」でも幕府領56石余・東大寺領35石余とだけ記している。村高は,「慶長郷帳」258石余,「寛文郷帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに280石余,「旧高旧領」92石余。元禄2年の奈良惣町中諸事覚帳には,家数39(禰宜赦免屋敷32・町役家5・庄屋屋敷1・号所西庄作之進1),竈数56うち大屋39・借屋17,享保14年の「奈良佐良志」には,役家数5,家数23,ほかに禰宜御免屋敷家数34,竈数23うち家持19・借屋4。「奈良坊目拙解」によれば,当所にある野田の法華寺と号する地蔵堂は南都二十四か所地蔵回りの1つ,また観音堂は南都三十三か所札所の1つで,「奈良佐良志」にはともに春日社禰宜・百姓の会所とある。また興福寺支配の四恩院では,毎年5月4日から同寺の唯識会が行われ,境内には十三重塔・衆会所・鐘楼・浮雲社・竜王宮があった(奈良坊目拙解・奈良惣町中諸事覚帳)。寛文6年の「和州寺社記」には,雨乞の際に竜王宮前で興福寺諸僧の祈祷があり,毎朝の春日への加持御供も四恩院から備進するという。「奈良佐良志」に「四恩院祈祷所」とあるのは,こうした同院の性格をよく表している。また慶長・寛永年間頃の春日禰宜で茶人の野田権太夫は当所に居住していた。東大寺領野田村は,江戸初期の東大寺寺中寺外惣絵図(東大寺図書館蔵)に千手院山・千手院鍛冶屋敷・畠および6軒の家が描かれている吉城川の北の地域に相当する。寛文12年の東大寺境内四ケ村居屋敷之覚(同前)には,庄屋屋敷をはじめ7軒の百姓屋敷と2軒の借屋が見える。「奈良坊目拙解」によると,東大寺領分は野田山上村とも呼ばれ,吉城川を境とするという。元禄2年の奈良惣町中諸事覚帳にも野田山上村として家数16うち2軒は幸徳井家御赦免地,竈数20うち大屋9・借屋11とある。享保17年の東大寺領四ケ村家数人数書(東大寺図書館蔵)によれば,家数45うち借屋21・号所11,人数244。「南都年中行事」によると氷室社の氏子町。明治4年の官社制度および神官の世襲廃止に伴い春日社禰宜は離散し,当所の寺院も排仏毀釈で廃絶した。同7年の大和国奈良細見図には「ノタ村」「ノタ丁」「東ノタ丁」「西ノタ丁」と書き分けている。同9年春日野村の一部となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7401530