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南魚屋町(近世〜近代)


江戸期~現在の町名江戸期は奈良町の1町南方触口支配に属する「奈良坊目拙解」によると,新町,魚屋新町あるいは魚店町ともいい,西側から来迎寺前に至る小路を塗田屋辻子【ぬりたやがずし】というまた同書の成立した享保20年頃には2町に分かれ,北部を魚屋町,南部を魚新町ノ南町と称するというこの南部は南魚屋町南方ともいった江戸期には奈良町の南西部に位置し,北は柳町,南は南新町と接し,南北通りの街区貞享4年の「奈良曝」には「いにしへハ魚や町,今の北新町にありしを,中比より大分此町へ魚の棚を引ける也」とあり,町名は魚屋の集住していたことに由来し,南は奈良町北方の北魚屋町に対する称慶長年間に田園に町家が形成されたと伝える(奈良坊目拙解)寛永8年の役家数48,元禄2年の家数51,竈数104うち大家46・借家58,享保14年には南魚屋町の役家数29.5,家数32,竈数43うち大家21・借家22,南魚屋町南方の役家数17.5,家数24,竈数27うち大家19・借家8(奈良市史通史3)「奈良曝」には,町役47軒と記し,魚屋としてすや弥右衛門・大和屋庄介・同太兵衛・かさや三太郎・なべや甚左衛門・かさや久蔵ほか7軒の名が見える元禄年間に魚商人が他所へ移り,享保20年頃には魚屋は多くないという(奈良坊目拙解)宝永年間町代高木又兵衛諸事控には京刀屋の四郎五郎,医師の松田老感,質屋の大坂屋治左衛門,米屋3軒が載る(県立図書館藤田文庫)薪能と春日若宮祭に出演する能役者,若宮祭に参勤する大名の役人衆の宿泊所を提供する宿割町にもなっていた(奈良町雑録)「南都年中行事」によると薬師堂町の御霊社の氏子区域明治17年の「大和名勝豪商案内記」には奈良晒・国産木綿縞布類・各国布類・蚊帳類卸商の高坂惣七の名が見える同22年奈良町,同31年からは奈良市に所属通称町名南魚屋北町・南魚屋中町・南魚屋南町がある




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7402419