南殿荘(古代〜中世)

平安期から見える荘園名山辺郡のうち大乗院門跡寄所興福寺喜多院二階堂領山内七か所の1つ仁平2年3月18日付神戸司牒案(興福寺本信円筆因明四相違裏文書/平遺2754)に,馬盗人の嫌疑をかけられた伊賀国下津田原村住人包友が,件の馬は久安年間に「大和国字南殿と申庄」の住人六郎別当から買得したものであると主張しているのが見える貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に山辺郡の大乗院荘園として「南殿庄 二十五町小……号宮方進納」,応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(同前)にも同地積で記載がある「三箇院家抄」巻2によれば「南殿庄〈山内七ケ所内,二階堂方〉二十八丁七反」とある田積は28町2段大ともいう(都祁水分神社縁起/大和志料上)平安期当荘は喜多院二階堂の一円所領であったが,鎌倉初期に同院主円綱已講が院主職を大乗院4代門主信円に寄進すると,大乗院の管領するところとなったしかし円綱已講は下地を諸人に売却し,二階堂に納入される年貢が皆無という状態であったため,信円は「方々之地主領主」から段米の寄進を募って二階堂仏餉灯明供料とし,その結果当荘は二階堂の負所となった(都祁水分神社縁起/大和志料上)当荘は二階堂負所米(文明2年6月9日付喜多院二階堂勤行記/福智院家古文書)のほか,都祁水分神社の鞆田祭に大乗院門跡に餅10枚を進上(寺社雑事記文明3年9月28日条),臨時に門跡や寺門の段銭・段米などを賦課されることもあったが(同前明応3年12月11日条,経尋記永正15年8月24日条/大日料9‐8,応永十四年下遷宮精進之記/大日料7‐9),南北朝期当時,当荘は南朝方の支配下にあって,進納を拒否しているまた都祁水分神社造替の際には,材木・垂木竹などを出すほか段米が課されたが,段銭の半分は荘内に鎮座する国津大明神社頭修造等料米に充てられた(都祁水分神社縁起・南殿庄国津大明神記/大和志料上,国津神社文書応永13年3月8日付神主左近事書/都介野村史)鞆田祭には細男の役を勤仕した(都祁水分神社縁起/大和志料上)当荘では,「ミナミトノゝ庄ヲウミト 二段」「ミナミトノゝタキカモト 一段」「ミナミトノゝ庄ノウチ コイケタ 二町田 二段」が,染田天神社連歌講の天神講田となっていたが,これは応安2年に南殿甲岳ノ九郎という者が天神講に売却した作主職をもとにして成立したものである(天神講田数注文,応安2年3月8日付売券/天神講田文書)現在来迎寺の所在する都祁村来迎寺字木原の地は中世には「南殿庄木原名」といい,当荘に含まれた応安元年興福寺六方衆の沙汰として,当寺住侶牟山陰士西念の祈雨の効験によって木原名1町1反の諸公寺が免除されている(来迎寺文書応安元年6月20日付興福寺六方衆下知状/同前)建武4年5月15日付了尊記によれば,来迎寺の寺地は当初墓地であったが,永久2年に顕鏡阿闍梨が結界を施し,中村伊賀公経実というものが,そのうちの「田畠山内」を寄進して成立したという(来迎寺文書/同前)この占地された寺域と寄進地が,当荘形成の開発拠点となったことを思わせる当荘は甲岡の土豪甲岡氏一族が知行し南殿氏を称していた菩提山信円の頃,当荘下司であった宗弘(都祁水分神社縁起/同前)や先に掲げた南殿中岳ノ九郎はこの一族当地の甲岡氏は応仁・文明の乱時には,筒井方に属し近隣の越智方の土豪鞆田氏と抗争した(寺社雑事記文明3年9月28日条)南殿氏は多田氏らとともに来迎寺檀越の一員であった(来迎寺記/大和志料上)現在の都祁村南之庄に比定される南殿氏の拠った南之庄城の遺構は南之庄集落の南方の丘上字城にある(日本城郭大系10)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7402454 |