脇戸郷(中世)

南北朝期から見える郷名。奈良のうち。寺門郷。なお大乗院門跡鎮守天満社の小五月会に役銭を出す小五月郷の1つ。「大乗院奉行引付」貞和3年2月4日条に「去比於脇戸之辺長勝与亀鶴互為刃傷事候之間,処罪科候了」とあって,郷内で起こった傷害事件につき,興福寺衆徒僉議の要請で,大乗院門跡が使者を下している(成簣堂大乗院文書)。下って,「寺社雑事記」康正3年4月25日条に「為六方沙汰,ワキトノ郷之内東北院披官ノ在所ヲ破却云々」,文明4年7月5日条に「珎蔵院之披官人〈脇戸住人〉自筒井方打殺之了」,同5年10月4日条に「夜前脇戸郷行国仕丁在所訪(放)火」とあり,興福寺東北院や珎蔵院の侍法師や公人らが居住した。また当郷には大乗院門跡に属する正願院塩座の塩売商人がいた。文明5年の正願院塩座衆等注進状によれば,座衆中に「脇戸五郎次郎」が見えるほか,脇戸三郎五郎とその子彦三郎は「居座ノ塩売」として郷内で店舗販売も行っている(寺社雑事記文明5年5月29日条)。天文12年3月郷内の興福寺西発志院領畠地を塩屋方百姓が押領したので興福寺学侶らは評定の上,同畠に点札を立てた(学侶引付写3/内閣大乗院文書)。この頃には大乗院門跡の塩座に属する塩店は当郷と椿井・西御門に1軒ずつあり,これらで奈良中の店舗販売を独占する定めであった(尋憲記元亀3年閏正月9日条/大日料10-11)。天正16年頃から郷内の塩屋の後家妙音尼にたびたび,吉野蔵王権現の夢告があり,それによって天女像を新造したところ,「ワキトノ塩屋」は参拝の群衆が市をなす有様で,同19年には焼失した天川弁財天の替りにこの宗貞作の像が天川に送られたと伝える(多聞院日記天正16年6月8日・19年6月朔日条)。当郷は金属加工の職人でも知られたらしく,文明年間に「脇戸銅工」の存在が所見し(寺社雑事記文明10年4月朔日条),元亀元年には神鹿をめぐる犯科につき,興福寺から「ワキトナヘ屋」に進発している。また文禄2年には多聞院で使う釜大小を「ワキトノナヘ屋小三郎」から入手したという(多聞院日記元亀元年4月朔日・文禄2年10月9日条)。元亀3年小五月郷間別打改帳によれば,当郷は間数42間余,鍋屋4,米屋・鍛冶屋・紅屋・饅頭屋・麹屋・大鋸屋・味噌屋・つる屋各1などの屋号があった(内閣大乗院文書)。天正10年小五月銭納帳には腹巻(具足)屋・糸屋も見える(成簣堂大乗院文書)。当郷は大乗院門跡領元興寺郷の1つとして扱われたこともあり,「寺社雑事記」明応2年3月13日条には「於元興寺郷脇戸郷越智足軽清三郎之手者打殺之」と見える。なお殺害の検断は大乗院・興福寺衆中・元興寺別当が入勝(早い者勝ち)に使者を差遣わして行うべきものとされている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7402996 |