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伊都郡


天正13年豊臣秀吉による紀州攻めは,当郡に政治的変動をもたらした。当郡に強力な支配力を有してきた高野山は,雑賀勢の降服などにより無血で秀吉の軍門に降り,改めて当郡のほか那賀郡域で2万1,000石の寺領を与えられた。天正19年10月21日の豊臣秀吉朱印寺領方目録(蓮上院文書/高野山文書3)によれば,富貴【ふき】・筒香・摩尼・北又・西郷・東郷【ひがしご】・椎手・慈尊院・志富田・古佐布・九度山・細川・天野・三谷・大滝・簗瀬・湯川・花坂・志賀・四村が,そして同20年8月4日の豊臣秀吉朱印状(高野山文書/大日古1-2)に川張・平野田が,さらに高野山無血降服に尽力した木喰応其宛の書状には清水・賢堂・向副【むかそい】・横座・馬場・田宮・丁田・東畑・西畑・河根【かね】が(橋本市史),郡内の高野山領として見える。徳川家康も寺領としての同高を認め,のち徳川家光が300石を加増,慶安3年中道村が高野山領となった。これら高野山領は紀ノ川南岸一帯に位置し,おおむね同川が和歌山藩領との境となったが,藩領の一部は同川南岸に入り込んでいた。慶長5年入国した浅野氏は翌6年に藩領へ検地を実施。同検地の結果を集約した慶長検地高目録によれば,村数81,高2万6,760石余。その後,「元禄郷帳」では村数127,高3万4,187石余うち高野山領7,327石余。「天保郷帳」では郡全体で147か村・高3万7,534石余とあり,「旧高旧領」は高野山領74か村・高8,072石余と和歌山藩領87か村・高2万9,969石余で計161か村・3万8,041石余。また「続風土記」によれば,藩領の田畑高2万9,900石余,家数5,960軒余・人数2万4,370人余,高野山領の田畑高7,460石余,家数3,150軒余・人数1万3,940人余。高野山領は学侶領・行人領・聖領に分けられ,その支配は,学侶領は年預代の下に各寺院の領に分け,各寺庄屋が置かれていたが,行人領は年預代の下に大庄屋が置かれて数村からなる組をつくり,興山寺による統一的支配がなされていた。高野山領では天正19年に検地が行われたが,その石盛は上田13・中田12・下田11・屋敷12・上畠10・中畠8・下畠6と,低い数値となっている。元和6年学侶領で土地を丈量せずに検地帳と引き合わせる地詰が,同10年行人領で検地が行われたが,実質収穫高との差をなくすことはできなかった。高野山領の年貢率は和歌山藩領より数値は高いものであったが,石盛の設定から見れば,藩領より低率であったといえよう。しかし,そのほか中世からの系譜を引く賦役が少なからずあり,その1つに工を単位としているものがあった。この工とは,1人が1日にできる仕事量を指している。また,雑事登りと称する野菜・供花などの貢納もあった。なお高野山領の特産物として高野紙が知られる。藩領は,浅野氏から徳川氏へと引き継がれる中でその支配体制が整えられ,各村は3組に編成された。上組は旧隅田荘と旧相賀荘域の各村,中組は旧官省符荘上方の村落,丁ノ町組は旧官省符荘下方・四郷,笠田荘の各村からなる。上組は橋本組や東家組,中組は名古曽組や禿組,丁ノ町組は妙寺組とも呼ばれ,その組名は時期により変動があり,また各組に置かれた大庄屋の名前を冠して呼ばれることもあった。寛永15年那賀郡藩領のうち紀ノ川上流の名手組・粉河組からなる上那賀が伊都郡代官の管下に移され,藩制上は5組となった。享保13年の御領分諸色数並土地之事(一色家文書/県史近世3)によれば,5組の村数126,高4万1,040石余,反別718町4反余。なお旧荘は行政単位としての機能は失ったが,祭礼などは旧荘の総氏神のもと旧荘単位で行われ,またこれを運営する荘の宮座も変貌しつつもその命脈を保っていた。代官の上には郡奉行が置かれ,その当郡への創置は寛永2年ごろ,奉行所は在町橋本町にあった。郡内の主要交通路は,大和国へ通じる伊勢街道(大和街道)と河内国から紀見峠を越えてくる高野街道で,橋本町は両街道の接点にあたった。また紀ノ川水運の拠点でもあり,紀ノ川を利用する船を調べる船改番所も置かれていた。藩は紀ノ川を利用した大和国への通船を認めず,同地で陸揚げし,物資に川年貢などを賦課した上で陸路大和国へ送らせた。また和歌川下流域および海辺部で産する塩も紀ノ川を通って運び,塩市が立てられ,早くも延宝3年に在方商人による独占権への対抗が生じたものの,国内産塩の売買に特権を保持した。紀ノ川の水運利用度に比べれば,その農耕への利用は充分ではなかった。徳川吉宗に登用された大畑才蔵は命をうけ宝永4年小田井開削に着手した。この用水は当郡小田村で紀ノ川を引水し那賀郡今中村まで通し,長さ約28kmにおよんだ。工事は3期に分かれ,才蔵はうち1期・2期の工事を直接手がけたが,この1期は難工事で知られる。小田井の上那賀を加えて伊都5組水懸り高は,享保13年の御領分諸色数並土地之事(同前)によれば5,380石余,掘継7,580石余,そのほか七郷之井が3,000石余,藤崎之井が8,600石余,また池数は818か所。18世紀初頭の状況を記す文化5年の諸色覚帳写(保田家文書/同前)に「もめん多織出ス」と見えるが,18世紀後半に入ると綿織物業の発展が顕著となり,安永5年豪農層も農繁期の労働力を確保するため機留の願書を出すほどであった(松山家文書)。その一方で,弱人・貧人が生まれ,商品経済の発展の中で豪農・豪商層と小前・日用取層の対立が深化していった。文政6年旱損中の水争いに端を発し,やがて紀ノ川流域にこぶち騒動と呼ばれる一揆が発生した。6月8日には当郡でも蜂起,橋本町に置かれていた藩の御仕入方役所を襲撃し,近在の酒屋・米屋・豪農などに打毀をかけた。なお当郡には御用金を賦課されるほどの酒屋が多くあり,川上酒は名産として知られていた。口五郡百姓騒動実録(田中家文書/県史近世3)によれば,中組67軒・上組48軒・丁ノ町組40軒の富豪層が打毀をうけている。この一揆は所々の勢いが合流して城下へ押し出し,藩を震撼させたが,そのため処罰は広範かつ苛酷をきわめ,一揆の主力を形成した当郡は数多くの処分者を出した。文久3年8月には大和五條で天誅組が挙兵し,当郡富貴村へ夜襲をかけたりしたため,藩は鎮圧のため藩兵を送るとともに,郡内諸村に非常入用を課し,また郡内地士を警備に動員するなどした。慶応3年12月鷲尾侍従が数十名をつれて高野山に登り,高野山へ朝廷の味方をするように伝達,金光院へ翌年正月まで在陣するなどし,幕末の政争は当郡にもおよんだ。明治2年版籍奉還に伴い,8月高野山領は堺県に属し,同年4月五条県に所属した。藩領は明治2年の藩政改革による郡制刷新で伊都郡民政局が管轄していたが,同4年7月廃藩置県により和歌山県に所属。同年11月1日高野山領が和歌山県に所轄替えされ,全域が和歌山県に所属した。同5年大区小区制により第4大区となり,旧丁ノ町組の1小区,中組の2小区,上組の3小区と,旧高野山領にあたる清水組・九度山組・渋田組・高野組の4~7小区に分けられた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7403337