100辞書・辞典一括検索

JLogos

31

太地村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。牟婁【むろ】郡のうち。和歌山藩新宮領。太田組に所属。慶長検地高目録では「泰地村」と見え村高158石余,ほかに小物成9斗余,「天保郷帳」は291石余,「旧高旧領」で292石余。水主役を負担する浦方とされ,慶長16年8月16日の加子米究帳(栗本家文書)では水主役数37(先高35)・代納升高44石余,また御領分加子米高帳(田中家文書)によれば江戸初期の水主米高42石。慶長11年当村の和田頼元が泉州堺の伊右衛門と尾州知多郡師埼の伝次をかたらい鯨突きを始めたのが,熊野地方捕鯨業の嚆矢と伝え,延宝5年には網とり捕鯨が創案され,初めは藁網,のち苧網に変えて捕獲量が伸び,天和6年暮から翌年春にかけて95頭をとったという(続風土記・東牟婁郡誌)。網で鯨を取り囲み,銛で捕獲する網とり捕鯨により,江戸初期から中期にかけて当村は最大の捕鯨地となった。当村の捕鯨業は,和田氏一族を頭領とし,その下で各職種分担を決め,一村あげての自主経営で行われてきたが,鯨の回遊が少ないことなどから退潮,藩の御手組となり,捕獲高の1割5分と扶持米の給付による経営に転換,弘化3年再び自主経営に戻ったが,以降,不漁・米価騰貴・地震被害などと相次いで打撃をうけ,新宮水野氏の仕入とすることで存続をはかった(東牟婁郡誌)。文政元年の太地村郷帳によれば網数306うち鯨網180,戸数256(太地町史)。また二分口役所控(南紀徳川史12)によれば,鯨舟25,鯨網舟9,鯨網180,内聞と注記して家数400軒ほどとし,ほかに多数の船・網を記す。当地は熊野灘に突出しており,近隣とは独立した地域を形成し,太地弁などに現れる独特な文化を生んだ。集落から東14町ばかりの湾曲部の出崎・室崎には寛永13年沖を通る船などのために灯を絶やさない灯明が置かれた。このため灯明崎とも呼ばれた。ほぼ南南東15町の出崎は梶取崎と呼ばれ,異国船警固のため遠見番所が置かれた。北方の水之浦という浜は,入水を装った平維盛が上陸し身をすすいだ地と伝承され,身洗(濯)浦の名で呼ばれた。室崎の沖1町には筆島という小島があり,天正年間ごろ同島で往来船に帆別を賦課するための札を書き与えたことから,この名がついたという。また湾内向島には鯨取りの道具を入れる納屋が立ち並んでいたという。ほかに獺岩穴・和田穴などと称する岩窟や,南方磯中の鷲ノ巣岩,鰹島がある(名所図会熊野篇)。小名に夏山【なつさ】がある。鷲ノ巣岩の北,30町ばかり湾を隔てた湯川村の出崎に位置し,人家は2,3軒,弁財天を祀る小社,磯際には内部に石垣が築かれ五輪塔が置かれる岩穴がある(続風土記)。神社は飛鳥社,ほかに小祠4社。寺院は臨済宗妙心寺派対潮山順心寺・清泰山東明寺,那智山三十六坊のうち天台宗円海院。明治4年新宮県を経て和歌山県に所属。同6年では戸数516,男1,188・女1,182。同年の管轄表による田畑地積54町2反(太地町史)。同11年12月出漁した勢子船7・網船7・持双船4・樽船1の計19艘からなる捕鯨船隊は,鯨を捕獲後に天候などの悪条件が重なり大洋を漂流,死者・行方不明合わせて出漁民過半の100人を超す大惨事に見舞われた(東牟婁郡誌)。同12年東牟婁郡に属し,同22年太地村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7405159