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椒荘(中世)


 南北朝期に見える荘園名。海部【あま】郡のうち。「今昔物語集」巻20の「長屋親王,罸沙弥感現報話第廿七」に聖武天皇が,長屋王の遺骨を「紀伊国海部郡椒抄奥島」に安置したことが見え,これが当地にあたるものと考えられているが(古典大系),荘園名としては,康永2年11月27日の大伴実村田地寄進状(歓喜寺文書/県史中世2)に「字枡(椒)庄公文職内号擲町」とあるのが初見。大伴(和佐)金村は勲功の賞として「枡庄公文職」を宛行われ,そのうちの水田1反を親父智性の菩提のため歓喜寺に寄進している。ついで文和3年8月3日の足利尊氏下文(相模早雲寺文書/和歌山市史4)によれば,「紀伊国枡庄公文職〈和佐又次郎実村跡〉」などが,勲功賞として志富田忠澄に宛行われている。なお暦応4年4月日の西椒荘公文海大空言上状案(西福寺文書/県史中世2)によれば,「仁和寺宝蓮院領紀伊国西桝(椒)庄公文」である海大空(宗景)は,和佐又次郎実村が恩賞として西椒荘公文職を賜ったと称して「当(西椒)庄薬師堂〈号西福寺〉別当職并田畠等」に濫妨することを停止するように訴えており,この椒荘は西椒荘にあたるものとも考えられるが未詳。東椒荘については貞応3年ころの宣陽門院所領目録(島田文書/鎌遺3274)に「新御領〈自上西門院被進之〉」の1つとして「紀伊国東桝庄」が見えるのみである。荘域は現在の有田市初島町浜・初島町里付近に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7406001