椒里村(近世)

江戸期~明治22年の村名。海部【あま】郡のうち。和歌山藩領知行所。加茂組に所属。村高は,慶長検地高目録では椒浜村とともに椒村1,400石余とあり,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに751石余。「元禄郷帳」には椒村と見え,「椒村新田 新田村」という枝郷名が見える。「天保郷帳」には「古者椒村・新田村弐ケ村」と肩書きされる。「続風土記」によれば,田畑高751石余,家数170軒・人数803,村内小名は奥村・大北・城本・中村・弓場。山麓・山腹はミカン畑,低地は水田に利用。嘉永7年には江戸送り蜜柑が御仕入方支配となり,10月15日ころ騒動が起こったが,12月に至って藩側も勝手方支配に復することを約し,平静に戻った(有田市誌)。氏神は国主大明神・大森貴船大明神社。神社は八幡宮・池之神社・弁財天社・王子権現社・大将軍社。寺院は真言宗古義正善寺,浄土真宗大谷派安楽寺,同宗本願寺派光明寺・善福寺。正善寺の本尊大日如来坐像(国重文)は平安期の康平年間の記年墨書がある。明治4年和歌山県に所属。同6年には戸数216,男505・女493。同22年椒村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7406004 |