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星尾(中世)


 鎌倉期から見える地名。在田【ありだ】郡保田荘のうち。嘉禎2年8月7日の高弁遺跡率堵婆銘注文(施無畏寺文書/県史中世2)に「星尾」と見え,「保田ノ庄河南ニアリ」と注記されている。このとき,高弁の弟子喜海が木造の率堵婆を建てたが,朽損したため康永3年石造のものが建てられている(紀伊国金石文集成)。建長5年3月日の明恵上人紀州所々遺跡注文(施無畏寺文書/県史中世2),「明恵上人神現伝記」(紀伊国阿氐河荘史料1),「春日御詫宣記」(続群2上)などによれば,当地は明恵上人高弁の伯父保田宗光の旧宅の地で,建仁3年高弁は当地で春日大明神の託宣をうけ,春日・住吉両大明神の形象を図している。高弁没後の文暦元年,宗光の子宗業(成)は父の屋敷跡に寺院を建立した。その約20年後の弘長2年4月25日の湯浅宗業寄進状(高山寺古文書)によれば,「紀伊国保田内星尾の屋敷をさり□(て)三宝に寄進するところの四至堺事」と見え,寺域を改めて定め,「山河東西八町三段,南北八町九段」とし,その四至は「東限糸我庄堺,西限桑原田……南限中山……北限在田河」となっていた。なお,「神光寺文書」の案文では南北9町2反となっている(県史中世2)。また,堺内の殺生を禁止し,寺域の地頭給の所当公事を免除している。そして弘長2年12月日の関東下知状案(神光寺文書/県史中世2)では,宗業の要請で「紀伊国保田庄星尾寺敷地」内への甲乙人の自由乱入の停止および殺生禁断が認められた。なお江戸期の「続風土記」によれば,現在有田市星尾字大谷にある神光寺は,この星尾寺6坊の1つ中ノ坊にあたるという。下って康永元年11月29日の広峰長種軍忠状案(広峰文書/大日料6‐7)によれば,北朝方の播磨国の御家人広峰長種は,この年の正月に「紀州星尾」にはせ参じ警固にあたっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7406478