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牟婁郡


「和名抄」紀伊国七郡の1つ。「日本書紀」持統天皇6年5月6日条に,「御阿胡行宮時,進贄者紀伊国牟婁郡人阿古志海部河瀬麻呂等,兄弟三戸,服十年調役・雑徭」とあり,同年3月に天皇が伊勢の阿胡行宮に滞在した際,贄を進上したのが当郡の阿古志海部河瀬麻呂等であった(古典大系)。平城宮跡出土木簡に,年月日未詳の「无漏郡進上御贄〈少辛螺頭打〉」「紀伊国无漏郡進上御贄礒鯛八升」の2点があり,当郡から贄が貢進されている(県史古代1)。「続日本紀」大宝元年10月9日条に「武漏郡」と見え,同3年5月9日条には,「令紀伊国奈我・名草二郡,停布調献糸,但阿提・飯高・牟漏三郡献銀也」とある(国史大系)。当郡内の郷名としては,平城宮跡出土木簡に,「□伊国牟婁郡牟婁⊏……〈⊏⊐杲十 □天平十七年十月〉」とあり(県史古代1),「正倉院丹裹古文書」第52号外包裏の天平勝宝2年2月21日村君安麻呂勘籍に,「紀伊国牟婁郡栗樔郷」「栗栖郷」「岡田郷」などが見え(大日古編年25),「和名抄」東急本には,岡田・牟婁・栗栖・三前・神戸の5郷があげられているが,高山寺本には神戸は記されていない。牟婁郷は郡名と同一で当郡の中心的位置を占めたと考えられ,田辺を中心とする地域に比定される。「日本書紀」斉明天皇3年9月条に「有間皇子性黠,陽狂云々,往牟婁温湯」,天武天皇14年4月4日条に「紀伊国司言,牟婁温泉,没而不出也」,「続日本紀」大宝元年10月8日条に「車駕至武漏温泉」などと見える「牟婁温泉」は,現在の白浜温泉と考えられている(国史大系)。「旧事本紀10」の「国造本紀」には,「紀伊国造……熊野国造 志賀高冗穂朝御世,饒速日命五世孫,大阿斗足尼定賜国造」とあり,紀伊国造と並んで熊野国造が記されている(同前)。また「続日本紀」天平神護元年10月22日条に「叙牟婁采女正五位上熊野直広浜従四位下」,同神護景雲3年4月6日条に「従四位下牟婁采女熊野直広浜卒」などと見える熊野直広浜は熊野国造の系譜をひくものと考えられる(同前)。江戸期の「続風土記」は牟婁郡総論で「孝徳帝の御世国郡を分ち給へる時,熊野国を廃して,牟婁の地を加へて一郡とし,本国に隷し牟婁郡と名つけ」と記し,国造の支配する熊野国があり,大化改新後にそれが廃され紀伊国内の一郡として当郡が成立したとしている。「三代実録」貞観18年7月22日条に,「金剛峯寺水陸田卅八町,在紀伊国伊都・那賀・名草・牟婁四郡,勅免其租,永為寺田」と見えるが(同前),永承4年12月28日の太政官符案には,「牟婁郡水田壱拾捌町陸段弐佰玖拾肆歩……去貞観十八年賜官符,雖不輸祖(租)田,代代国宰多以収公……似無其実……返進件四箇郡不輸租田……寺家政所前荒野并作田見,限四至為寺領不輸祖田,不入国使」とあり(高野山文書/大日古1-7),当郡を含め4か郡にある不輸租田は内実を伴わないものなので,それを返進するかわりに高野山金剛峯寺政所前の田地・荒野を寺領として認めてほしいとの解状を出し,承認されている。「延喜式」神名帳には,「牟婁郡六座〈大二座 小四座〉熊野早玉神社〈大〉熊野坐神社〈名神大〉海神社三座 天手力男神社」とある(国史大系)。熊野三山(本宮【ほんぐう】・新宮・那智)信仰の高揚とともに,平安後期以降,院や貴族の熊野参詣が盛行するが,その参詣道として紀伊田辺から山中に入る中辺路【なかへち】と,南下して海沿いの大辺路【おおへち】がある。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7406843