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会見郡


伯耆国六郡の1つ。天平勝宝9年4月7日の西南角領解に「刑部緑万呂〈年廿五 伯耆国相見郡天万郷戸主刑部広万呂〉」とあり,また「正倉院御物調庸綾絁布墨書」に「伯耆国会見郡安曇郷戸主安曇 調狭絁壱匹」とあり,「造寺所公文」の「優婆塞舎人事」に「賀茂部秋麻呂年廿 伯耆国会見郡賀茂郷戸主賀茂部馬戸口 神護景雲四年六月廿五日」とある(寧遺中)。承和元年,伯耆国会見郡の荒廃田120町を,有智子内親王に賜り(続日本紀),嘉祥元年には,勅により伯耆国会見郡路下11条の荒廃公田120町を,去る天長11年有智子内親王家が賜ったが,そのうちの80町を親子内親王が割いて賜る(同前)。有智子内親王は嵯峨天皇の第9皇女である。有智子内親王に賜田して与えられた会見郡路下11条は米子市下郷付近が比定され,公田の荒廃の理由は洪水のため,水浸ないし磧化し荒廃したものと推定されている(県史1)。「日本後紀」の延暦24年3月に「伯耆国に使を遣し,玄賓法師を請い遣す」とあり,「三代実録」の貞観7年8月には「昔弘仁の末に,沙門玄賓が伯耆国会見郡に阿弥陀寺を建立する。勅によって,寺田十二町九段四十歩を与え,伯耆国の百姓に施入させる」と見られる。玄賓の生涯については鎌倉期の「元亨釈書」巻9に記され,玄賓が伯州の山に入ったのは天平神護のころ,桓武帝に召し返されたのは延暦24年である。桓武帝の病が癒え伯州の山に帰山するが,再び平城帝に召され,大同初年に帝のもとを去り,以後弘仁9年に80歳で没するまで備中国哲多郡の湯川寺にいたと推定される(県史1)。玄賓が入ったという「伯州の山」は伯耆大山【だいせん】であったものと推定されるが,阿弥陀寺の所在地ははっきりせず,伯耆大山寺の阿弥陀堂とするもの(県郷土史),西伯【さいはく】町下中ノ谷字加祥とするもの(県史1・西伯町誌)など諸説がある。貞観2年9月伯耆国西部4郡(八橋【やばせ】・汗入・会見【あいみ】・日野)に水災があり,同3年に「復優二箇年」とされる(三代実録)。また貞観12年には「飢えて,疫死者が衆く出たので,優復」とされた(同前)。「和名抄」は会見郡を「安不美」と訓ませ,日下【くさか】・細見・美濃・安曇【あずみ】・巨勢【こせ】・蚊屋・天万・千太・会見・星川・鴨部・半生【はにう】の12郷が載せられ,伯耆国最大の郡である。大山寺鉄製厨子銘(平遺金石文編425)に「伯州会東郡地主紀成盛」が承安2年11月20日,伯耆大山寺に鉄製厨子を奉鋳したとある。「和名抄」には「会東郡」は載せられていないが,岸本町坂長の長者原に居住していたと伝承され,岸本町坂長の地籍図をみると長者原・長者屋敷などの地名が検出される。郡家位置については,「伯耆国風土記」逸文に「伯耆国の風土記に曰く,相見郡。郡家の西北のかたに余戸里あり。粟嶋あり」と見られる。余戸里は境港市余子【あまりこ】あたり,粟嶋は米子市彦名の粟島(高さ38mの小山)が比定されており,郡家はこれら余戸里や粟嶋の南東の方向に位置していたことになる。しかし,その明確な位置ははっきりせず,岸本町大殿の大寺廃寺跡付近とするものなどがある(県史1)。昭和54年から岸本町坂長の岩屋谷で発掘調査が続けられ,6間×3間の建物遺構が確認された。柱穴の深さは0.7~1.1m,直径30~50cmで,柱穴から出土した土器片から遺構は奈良期~平安初期のものと推定され,さらに遺構をとり囲む溝も検出された。遺跡地は岸本町坂長の長者原台地にあり,しかも周溝も見られることから,伝承の豪族紀氏の居館跡とされる考えもあるが,周溝は年代的に少し後代のものといわれ,さらに遺構の大きさから会見郡家跡とする考えが有力である。郡内の条里は「続日本紀」の嘉祥元年8月16日の条に「伯耆国会見郡路下十一条荒廃公田百廿町」と見られ,その施行が実証される。空中写真などで見ると,条里制遺構の分布範囲は南は法勝寺川流域,北は海岸線に並行して東西に走る国鉄山陰本線付近との間の地域である。「会見郡路下十一条」を米子市下郷付近に比定するとすれば,会見郡内の条里は会見町天万【てんまん】付近を基線として,北へ11~12条,南へ約2条の条里が施行されていたことになる。坪並は南東隅から始まり南西隅に終わる千鳥式が報告されている(県史1)。式内社宗形神社が米子市宗像【むなかた】,式内社大神山神社が米子市尾高に祀られ,奈良期の大寺廃寺跡が岸本町大殿,奈良期~平安期の坂中廃寺跡が岸本町坂長にある。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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