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出羽郷(中世)


 鎌倉期からみえる郷名。石見国邑智【おおち】郡のうち。南北朝期より上出羽郷(出羽上郷ともいう),下出羽郷(出羽下郷ともいう)の区分が現れるが,出羽上下郷と一括して呼ばれることが多く,戦国期には,出羽とも呼ばれた。現在の邑智郡瑞穂【みずほ】町田所【たどころ】・出羽・高原などの地域に比定される。貞応2年3月の「石見国田数注文」(益田家文書/鎌遺3080)に「出羽 のぶ もりちか卅六丁四反小」「下出羽佐波 同いなよし 十一丁七反百二十歩」とみえるのが初見であるが,ここにみえる「出羽」「下出羽」はいずれも後代の追記と思われ,これ以外では正応4年2月24日付「石見国司庁宣」(賀茂別雷神社文書)を初見とする。この文書は賀茂社領久永荘と国衙領出羽郷との境を定め,社領を社家雑掌に渡すよう留守所に命じたもので,出羽郷が久永荘と境を接していたことが知られる。上出羽郷・下出羽郷の初見は建武3年11月26日付の「足利尊氏寄進状」(京都本圀寺文書),同じく出羽上下郷の初見は文和2年4月5日付「足利義詮袖判下文」(萩閥43)である。文和元年10月17日付「沙弥某預ケ状」(同前)によれば,出羽郷は君谷弾正忠(出羽実祐)に預けられており,君谷氏はこれ以後出羽氏を名乗ったようである。永和2年11月6日付「沙弥道恵荒河詮頼挙状」(同前)には「君谷出羽四郎左衛門尉祐忠」とみえる。「瑞穂町誌」によれば,出羽上郷は上田所・下田所・上亀谷・下亀谷・鱒淵【ますぶち】の5部落から構成されてその中心は田所にあり,また出羽下郷は三日市・八日市・山田・淀原【よどはら】・岩屋・久喜【くき】・大林・原村・和田の9集落で構成され,その中心は三日市・八日市にあったという。南北朝期から室町期の一時期,出羽郷は安須奈【あすな】荘に拠る高橋氏の支配下に置かれたが,文明3年2月5日,足利義政から「石見国出羽上下郷地頭職事,為亡父祐房遺跡之上者,君谷出羽孫二郎太祐領掌不可有相違」との安堵を受け(足利義政御教書/萩閥43),旧に復した。この後天正19年10月12日,出羽元実が毛利氏によって出雲頓原【とんばら】の由岐に移封されるに及んで出羽は吉川氏の支配下におかれた(瑞穂町誌)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7410675