河合郷(中世)

鎌倉期からみえる郷名。石見国安濃郡のうち。貞応2年3月の「石見国田数注文」(益田家文書/鎌遺3080)に「かわ□□(あいカ)郷 □四丁一反二百四十歩」とみえるのが初見。建武3年9月の「久利赤波朝房軍忠状」(久利文書)に「河合郷地頭金子孫五郎入道」とあり,鎌倉期以来,河合郷地頭は金子氏であったと考えられる。文和2年4月の「久利赤波重房軍忠状」(同前)によると,南北朝期ここには河合城が存在した。明徳元年4月10日,「細川頼之遵行状案」(庵原文書/新県史史料編1)でもって小笠原長弘が「河合郷并吉永郷地頭職」に補任され,小笠原氏はこれを契機として石見東部に勢力を扶植した。天正13年8月の「小笠原長旌所領目録」(旧県史7)によると,石東全域に及ぶ所領のうち川合村として57町2反300歩余がみえる。同年9月28日付の「小笠原元枝書状」(庵原文書/新県史史料編1)に「河合南之郷之内朔日名」とみえ,戦国期には南・北両郷に分かれていたと考えられる。天正19年,小笠原氏が出雲国神西【じんざい】に国替を命ぜられた後,この地域は毛利氏の支配下に入った。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7411605 |




