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大東荘(中世)


 鎌倉期からみえる荘園名。出雲国大原郡のうち。建長元年6月の「杵築社造営所注進状」に御遷宮の神事儀式の流鏑馬役勤仕の諸郷保として「三番 大東北南,同飯田・縁所【えんじよ】,此等地頭勤仕」と記されている(北島文書/鎌遺7089)。荘名の初見は文永8年11月の「関東御教書」(千家文書/鎌遺10922)で,杵築大社三月会の相撲頭役勤仕の17番に属する荘郷として「相撲 大東庄南北内九十丁 土屋弥次郎,飯沼四郎,土屋六郎左衛門入道,縁所五郎 神保太郎跡,相撲九十六丁八反六十歩 同庄内三十丁同前」と見える。南北朝期には,元弘3年5月15日に後醍醐天皇より「大東庄加多社別当正法院万福寺住侶,可抽御祈祷之精誠者」との綸旨を賜り(旧県史6),加護の功によって建武4年6月2日に源時氏より社領として大東荘清田を寄進された(旧県史6)。元弘3年6月20日,名和長年は土屋次郎の京都六波羅における軍功に対して大東荘内金坂・阿用【あよう】四分一地頭職を与えている(旧県史6)。室町期には,尼子氏と山名氏の抗争の戦場となり,大東馬田城の戦・大東草尾の戦・大東野田原合戦が行われ,文明元年8月23日・9月21日・10月23日には山名勢の駆逐に成功した尼子清定に対して尼子持清の感状が出されている(旧県史7)。室町期以降通称としての大東荘は存続するが,大東という呼称が一般化する。永禄5年2月19日の神西三良左衛門尉宛ての「尼子義久安堵状」に「大東之内正法院名」とみえる(春日文書/旧県史7)。毛利氏の支配下では,永禄13年正月28日・3月14日の多根元房宛ての「毛利元就知行宛行状」に「大東庄之内観音堂田題,古三日市,腰舞今村屋職三拾五貫足(中略)大東庄之内針江六拾五貫足」と記されており(萩閥3-199),多根元房はこのうちから大原郡一宮勝田明神社領15石足を大東庄錦織宮司に寄進した(旧県史6)。永禄13年4月14日の毛利就親の門脇清左衛門尉宛ての「知行宛行状」には「大原郡大東之内針江之八幡宮預ケ進候」とみえ,元亀4年10月6日の針江八幡宮領の検地帳には宮之前の分米7石2斗を門脇清左衛門尉に宛て行うと記されている(新県史史料編1)。同年10月25日の毛利輝元の「知行宛行状」に依ると児玉元信は,大東代官職に補任され,多根元房の所領を相続し,安堵されている(旧県史8)。輝元は天正5年10月21日の「知行宛行状」で,大東の検地の際の帳外田畑を恩賞として三輪与三兵衛尉に宛て行う旨の約束をしている(萩閥2-408)。同14年2月12日の検地帳の「山内隆通領地書出之控」には「大東之内参百貫,大東之内大西之内にて弐百貫重而被下候」と記されている(萩閥1-310)。大東荘は現在の大東町とその周辺を含む地域と推定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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