高津村(近世)

江戸期~明治22年の村名。美濃郡のうち。江戸期を通じて津和野藩領。藩高津組代官所所在地。庄屋は中島・宮内・永田・斎藤家。「万手鑑」によれば,元和年間の村高は403石余,寛永14年は361石余,「天保郷帳」では403石余。化政期には400石積天神丸をはじめとする北前廻船・紙船が多数就航し,港は高津川の舟運と相まって盛況であった。幕末,長者原の台場・遠見番所・船見番所等の海防の要地となる。浦番所大年寄堀江家は藩西部六浦の支配役であった。寛永期の高津川新河道の改修とたびたびの大洪水によって,対岸の浜田藩領中島村との藩境論争が起こり,中須浦にも両藩の論地が存した。宝永期,庄屋長嶺嘉左衛門は,蟠竜湖疏水暗渠の難工事を完工,唯心居士と尊崇されている。柿本人磨神社は延宝9年松崎の地から鴨山【かもやま】に移建,節分・八朔の大祭にはアユ・海産物の特産の市も立った。「万手鑑」家数401(うち農家116・商家271)・人口1,746,耕地69町余,米蔵・紙蔵各1,武器蔵2,酒屋2・質屋6,荷物船7・高瀬船6・商船25・漁船6。明治8年持石【もちいし】村を編入。同9年島根県に所属。同22年美濃郡高津村の大字となる。同年434戸・2,412人。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7412605 |