浅口郡

豊臣政権と毛利氏の中国国分け後当郡はほぼ毛利氏の支配下にあったが,毛利氏は慶長5年関ケ原の戦の戦後処理によって防長2か国へ領土を削減され,かわって小堀正次が勝利者徳川家康の国奉行として上房郡松山城へ入城,備中国を管轄した。同9年正次は死去するが,国奉行職は子の政一が継いだ。同11年藤堂高虎が江戸城普請の功によって2万石の加増を受けるが,この時政一は幕府領内から割渡す村々を選択,当郡内の一部があてられた。藤堂高虎は同13年伊予国今治から伊勢国津へ転封となり,その時に当郡を含めた備中内の領知も移された。次いで同16年には青木一重領1万2,000石の一部,蒔田広定領1万余石の一部が設定されている。青木一重は摂津麻田藩を立藩。蒔田氏は当初賀陽郡井手を本拠としたが,のち分知を繰り返して本家の高が万石を割り,文久3年高直しで万石へ復帰,賀陽郡浅尾に陣屋を置いて浅尾藩を立藩した。元和元年岡山藩領,元和3年松山藩・成羽藩領が設定された。なお,岡山藩領分の多くは寛文12年藩主光政致仕に際して分知された次男政言領となり,政言系池田氏は幕末に郡内鴨方を支配の拠点とした。寛永古図によれば,成羽藩領5か村うち相給1か村で2,106石余,摂津麻田藩領1か村で738石余,旗本蒔田氏領1か村で716石,松山藩領9か村で2,283石余,過半は岡山藩領で,23か村うち相給1か村,高1万3,753石余。なお「備中集成志」による高2万623石余,村数は本村28・枝村37。「元禄郷帳」では村数44・石高4万8,981石余,うち幕府領11か村うち相給2か村,鴨方藩領16か村,新見藩領3か村うち相給1か村,岡山藩領6か村うち相給1か村,旗本蒔田2氏領3か村,西江原藩領1か村,摂津麻田藩領2か村,松山藩領が相給2か村となっている。「元禄郷帳」49か村・5万4,726石余,「旧高旧領」62か村・5万6,141石余,うち幕府領倉敷代官所支配7,856石余・松山藩領690石余・旗本蒔田氏領439石余・岡山藩領7,614石余・鴨方藩領2万914石余・丹波亀岡藩領1万2,109石余・摂津麻田藩領1,016石余・新見藩領1,197石余・成羽藩領3,717石余・浅尾藩領557石余,残余は寺領となっている。この高の増加は主に新田開発による。その地域は郡の東端部,旧西高梁川と東高梁川の河間および西高梁川右岸で,かつてこの近辺は大きく海が入り込み乙島・柏島・七島などは島であった。寛永6年北面新田,万治2年玉島新田,元禄初年亀島新田などの干拓新田が成立している。道は,岡山から鴨方を経て笠岡に至る鴨方往来が東西に,松山から玉島に至る玉島往来が南北に通る。高梁川は年貢米輸送路として松山藩主水谷氏の手で船路の開発と整備が行われた。また,外港としての玉島の条件を整備するため築堤工事を行い,延宝年間には船穂水江の一の口水門から長尾・爪崎を経て玉島港に至る運河を開削した。この高瀬通しは玉島近郊の新田への灌漑用水路としても機能した。新田地帯を中心に郡内では綿作が盛んに行われ,沿岸部では勇崎を中心とした製塩業が栄え,漁業も盛んであった。明治4年廃藩置県により岡山県・鴨方県・亀岡県・倉敷県・麻田県・新見県・成羽県・浅尾県に分かれ,鴨方県は岡山県へいったん移管され,同年11月深津県に統合,同5年小田県を経て,同8年岡山県に所属。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7414457 |