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笠岡(中世)


 南北朝期から見える地名。備中国小田郡陶山荘のうち。観応元年12月18日の足利尊氏御判御教書写(相州文書)に「備中国笠岡凶徒退治事」とあるのが初見で,佐藤中務丞なる人物が当地において直冬党と思われる凶徒を退治し,その功を賞されたことが分かる。応永19年北野社一切経供養が行われたが,その写経に当地の遍照寺から宥兼・瑛乗・定泉・学真・頼順の5名の僧が参加し,「筆者備中国陶山庄笠岡遍照寺瑛乗〈生年廿六〉」などの奥書を残しており,当地が陶山荘内であったことが分かる(北野社一切経/大日料6-17)。灯心文庫本「兵庫北関入船納帳」によれば,文安2年5月24日・10月3日・11月17日にそれぞれ入船した3艘の船籍は当地にあり,積荷は大麦・干鯛・米・材木・マメ・かのしま(塩か)などであった。文明3年をそれほど上らないものと推定される6月2日の是経書状(吉川家文書1/大日古)に「備中笠岡之儀」と見えるが,詳細は不明。延徳4年前後に成立したと考えられる飯尾宗祇自選の句集「下草」(続群17下)に「備中笠岡という所にて卯の花を 卯の花に木の下はるゝ山路かな」と見える。天文21年9月8日の小早川隆景書状写(萩藩閥閲録)では,当地での功を賞して小田郡広浜の田畠2町7反余を小寺元武に宛行っている。弘治~永禄年間と推定される11月23日の小早川隆景書状写(萩藩閥閲録1)によると,当地を欲していた村上元吉に対し,陶山領のうち1,000貫を給している。永禄初年頃と推定される6月6日の毛利元就・同隆元連署書状(山口県文書館所蔵文書/広島県史古代中世資料編5)は,浅口郡内小坂における毛利方と庄方との合戦を渡辺房に伝え,当地でも競条するように添えている。永禄年間頃と推定される5月27日の横山盛政宛杉原盛重書状(横山文書/広島県史古代中世資料編4)によれば,渡辺房は笠岡番手であろうかと推定されている。同氏は備後沼隈郡山田の一乗山城を居城としていたが,前述の連署書状にも「笠岡 山田」と並記されていること,「備中誌」に「笠岡宮地 天正年中渡辺杢之丞居住。小平井村の領主にて息男頼母と云。小平井村氏宮に渡辺氏旧記今に在と云」とあるところから,当地との深い関係がうかがえる。永禄11年12月中旬の乃美宗勝言上状写(小早川家文書2/大日古)では,同年の毛利氏伊予出征に当地および鞆・尾道・三原・忠海・高崎・竹原などから出船したことが分かる。天正5年毛利氏は大坂本願寺勢力と連合すべく東上も企図するが,同年と推定される3月11日の小早川隆景書状写(萩藩閥閲録)では,湯浅将宗に対し同月16日に窪屋郡幸山への着陣を指示し,自身は12日に三原から船で当地に着陣すると伝えている。同年と推定される3月19日の毛利輝元書状写(萩藩閥閲録2)でも,福間元明に対し,自身が同月16日に備後伊多岐(板木)まで出陣したこと,小早川隆景は同日当地に着陣したことを伝えている。同年と推定される5月22日の穂田元清書状(厳島野坂文書/広島県史古代中世資料編2)によれば,毛利輝元が当地において去年以来の立願2か条の儀を聞いている。同年閏7月9日の毛利輝元書状写(萩藩閥閲録2)では,粟屋元英に対し,当地在陣中の小早川隆景へ確認ののちに返事するとしている。同年同月12日の毛利輝元書状写(萩藩閥閲録3)でも,湯浅将宗に対し同月20日に当地へ来て,小早川隆景と相談することを命じている。同年同月15日の三上七郎右衛門宛小早川隆景書状(広島大学所蔵三上文書/広島県史古代中世資料編4)でも即刻当地へ来るように命じているが,同月20日の讃岐元吉城下での戦いとの関係も考えられる。同年と推定される10月1日の毛利輝元書状写(萩藩閥閲録3)には,在陣中の讃岐から当地に阿波三好氏からの講和条件を携えて児玉就英が戻ったことが見え,結局11月に講和が成立した。年未詳6月16日の毛利輝元書状(厳島野坂文書/広島県史古代中世資料編2)は,厳島神社の棚守房顕・同元行に宛て児玉元良への神託を求めたものであるが,小早川隆景が当地に在陣していることから,この頃のものと推定される。同6年と推定される2月17日の毛利輝元書状写(萩藩閥閲録2)では,桂元将に対し,急用につき明日未明当地へ赴くよう伝えている。同年と推定される3月15日の天野元政書状写(小早川家文書2/大日古)からは,同月12日に出発した小早川隆景が当地へ着陣したこと,毛利輝元は16日に出発することが知られるが,これは播磨上月城の奪還を目指しての行動であった。上月戦は毛利勢が7月上旬には勝利するが,天正6年と推定される11月14日の小早川隆景書状写(毛利家文書3/同前)では,当地に在陣する隆景から当時の播磨・摂津の状態が伝えられ,輝元の出陣を促している。天正8年と推定される正月17日の吉川元春書状写(萩藩閥閲録)では,児玉就英に対し淡路岩屋在番を賞しているが,追而書きに父就方が当地に上着していたことが記されている。同年と思われる8月6日の毛利輝元書状写(萩藩閥閲録3)では口羽通良に対して,当地在陣の隆景から銀子を給されるよう伝えている。同9年と推定される卯月17日の小早川隆景書状写(萩藩閥閲録1)では,村上元吉に対し,輝元・隆景の本望を伝え当地へ来ることを求めているが,豊臣秀吉の説得に応ぜず毛利方に与し続けたことによるものと思われる。年未詳9月3日の宇喜多直家書状(松田文書)では,去月中旬頃から毛利勢が当地や備後神辺に着陣していることが記されている。なお,「備中兵乱記」元親謀叛之事附芸陣寄来事には,三村元親敵対の報に接し,同2年11月8日には小早川隆景・口羽・福原・宍戸・熊谷が,翌9日には毛利輝元が当地に至ったことが記され,また同書諸軍勢莟松山事附手荘城没落事でも,毛利勢の幹部クラスが当地において評議を加え,端城を落としたあとに松山城を攻略する旨が確認されている(続群22下)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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