水島(中世)

平安末期から見える地名。備中国浅口郡のうち。「平家物語」巻8水島合戦(古典大系)・「源平盛衰記」巻33源平水島軍事などによれば,寿永2年閏10月に,木曽義仲の武将の足利義清・海野行広が「備中国水島」の海上に船を浮かべて,讃岐国屋島に陣を構える平家方を攻めようとしたところ,四国から大将平知盛・同教経が大軍を率いてこれを攻め,源氏勢を破ったという。「尊卑分脈」によればこの戦いで源氏方の総大将足利義清・海野行広は,ともに討死しており,一方,平家方の将の越中盛嗣・景清らが高名をあげている(平家物語巻8・9/古典大系,源平盛衰記巻37)。平家の播磨国室山と当地の合戦の勝利は,後世に語り継がれた(平家物語,源平盛衰記,吾妻鏡元暦元年2月20日条所収同年2月23日平宗盛書状写,保暦間記/群書類従26,一代要記/改定史籍集覧1,公方西将記/続々群書4,今川記/続群書21上,北条記/同前など)。この合戦のあった地を現在の倉敷市玉島付近に比定する説と同水島地区付近に比定する説とがある。なお,「予章記」によれば,霊亀年間に三島大明神が伊予国に下る途中,備中国の海上で弓で清水を湧き出させたことからその海を「水島之戸」と称するようになったという。下って慶長元年に来日した朝鮮の使者の記した「日本往還日記」閏8月13日条(日本庶民生活史料集成27)に,著者黄慎が小島(児島か)に宿泊したことが記されており,「それを水島と名づく」としている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7419662 |




