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安芸国


大和政権が国造を置いた頃安芸国の地域には国造として阿岐国造が見えるだけであり,その国造の名が律令制の国名に採用されたもの。阿岐国造はほぼ安芸国の地域を支配していたものと推定されるが,芸北地方には出雲国造の支配が及んでいた可能性がある。阿岐国造はその氏の名が国名に採用されて,阿岐直は凡直という氏姓が付与された。大和政権の直轄領である屯倉が安芸地域にも置かれ,過戸廬城部【こしべのいほきべ】屯倉が広島市南区祇園町あたりにあった。天平6年安芸国と周防国との境界は大竹川(小瀬川・木野川)とすると定められた。「延喜式」の管郡は沼田・賀茂・安芸・佐伯・山県・高宮・高田・沙田の8郡。「和名抄」の安芸国総田数は7,357町余。律令制国家の頃の人口は6万5,600人と推計されている(奈良時代民政経済の数的研究)。山陽道は備後国から入って真良―梨葉―都宇―鹿附―木綿―大山―荒山―安芸―伴部―大町―種箆【へら】―濃唹―遠管の13駅を通って周防国に至る。国府の所在地は「和名抄」では安芸郡とあり現在の安芸郡府中町であるが,国分寺の遺構が東広島市西条町吉行にあることから,当初の国府は西条盆地にあったと推定する説もある。国分尼寺は遺構が確認されていないが,国分寺遺構の東方600mに「尼寺」という小字があり明治中期まで「にんじ堂」と呼ばれる小堂があったことからここが国分尼寺の所在地かと推測されてきているが,明確な根拠はない。式内社は佐伯郡に速谷神社(月次新嘗)・伊都伎島神社。安芸郡に多家神社があり,すべて名神大社。総社は安芸郡府中町にあったが,明治4年に松崎八幡宮と総社とを合併して両者の中間に新たに現在の多家神社が建てられた。厳島神社は11世紀初期の寛仁元年にはすでに安芸国を代表する神社であったが,12世紀には安芸国一宮となり,平氏の信仰が著しく強くなる。安芸国は平清盛あるいは平氏一門の地行国となっていたと推定されているが,厳島神社神主佐伯景弘の活動もあって平氏に所領を寄進する在地領主も多く,平氏の勢力が安芸国に広まった。この間,荘園公領制の成立過程で管郡に変動があり,安芸郡は安南・安北両郡に,佐伯郡は佐東・佐西両郡にそれぞれ分離,一方,豊田・沼田両郡は豊田郡,高宮・高田の両郡は高田郡となった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7420511